『雑事要録』は文明七年(一四七五)から大永四年(一五二四)にかけての近衛家の経営収支を記述した記録で、「雑事要録」と「雑々記」からなる。
いずれも体裁は反故文書を半截して紙背を袋綴状に用い、紙撚で仮綴した横本である。
このうち「雑事要録」は文明十年(一四七八)から永正二年(一五〇五)までの二三冊が時代を追って存するが、文明十二、十四、文亀二年分を欠く。本文はほぼ同筆で、『後法興院記』にみえる関白近衛政家の筆跡に一致する。しかし、第二十三冊の永正二年記は、六月十九日に政家が薨じており、その大部分は家司の筆になるものとみられる。
記述は、一家領、二米銭事、三八朔事、四自處々礼物事、五遣處々物事、六下行物事などの項目別になされ、このほか殿下渡領(文明十一年)、東山御移徙御礼馬代(文明十二年)など必要に応じて項目を掲げる。
一家領は、各年次について、桂殿、富家殿以下の家領を掲げ、戦国期一一五か所を数えた近衛家領の具体的変動を伝える。二米銭事は、政家が貸し付けた米や銭の帳簿である。三八朔事は、内裏、伏見殿、東山殿、室町殿、一乗院門跡等との間の八朔の贈答品を記す。四自處々礼物事は、諸家より到来の諸品、銭について記し、五遣處々物事は、同様に諸家へ遣わした品目を記す。これらは禁裏から幕府奉行人、宗祇などの連歌師、河原者に至る政家の交流の広さを伝えている。六下行物事は、毎月の下行の相手、金額などを記している。
「雑々記」は新補茶表紙を装した九冊からなる。その構成は「雑事要録」とほぼ同じだが、記事の内容は「雑事要録」ほど詳しくない。うち第二十七から三十の四冊は、その内容からおおよそ「雑事要録」明応三年分(第二十七、二十八)、明応十年分(第二十九、三十)の二冊分に相当するものとみられる。「雑々記」は「銭米部類記」などから知られるように「雑事要録」の記事の一部を抜書、あるいは部類した性格をもつ。
このうち第二十四「雑々記」は、後の一乗院良誉生誕の記事等を記すが、文中に「内府息」を「余孫也」と記すことや、その筆跡から記主は政家の父房嗣であることが知られる。房嗣はまた文明十年から同十二年に至る信楽庄、宇坂庄の年貢収入を書き上げた一冊(第二十五冊)も記している。「大永三年雑々記」「大永四年雑々記」の二冊は、「雑事要録」に倣い桂殿以下の家領を加地子得分に至るまで記したもので、その筆跡は近衛尚通である。
このように「雑々記」は房嗣の晩年から政家を中心にして尚通に至る時代のものであり、その体裁内容も「雑事要録」とほぼ同一で、一部に記事の重複もみえることから、現状においては便宜「雑事要録」のうちとして、一括してその保存を図ることとした。
以上のように「雑事要録」は関係文書の少ない十五世紀後半から十六世紀前半にかけての近衛家領運営を具体的に伝える記録であり、とくに当主政家等が自ら日常の収支を克明に記している点は価値が高く、『後法興院記』『尚通公記』を補う史料として貴重である。