三箇院家抄 さんかいんげしょう

歴史資料/書跡・典籍/古文書 その他 / 室町

  • 室町
  • 4冊
  • 重文指定年月日:20040608
    国宝指定年月日:
    登録年月日:
  • 独立行政法人国立公文書館
  • 国宝・重要文化財(美術品)

 『三箇院家抄』は南都興福寺の大乗院門跡【もんぜき】を構成する大乗院、龍華樹【りゅうげじゅ】院、禅定【ぜんじょう】院の三院家などの法務および所領に関する台帳である。主要部分は、応仁二年(一四六八)ころに成立し、その後書き込みや書き継ぎが行われて現在の形となったものであり、大乗院第二〇代門跡尋尊【じんそん】(一四三〇~一五〇八)の筆になる。尋尊は『大乗院寺社雑事記』の記主としても著名である。
 本書は明治初年、大乗院門跡が廃仏毀釈によって廃絶した際、同門跡の文書記録類の多くが明治政府に購入され、内閣文庫の架蔵になった大乗院文書の一部である。体裁は袋綴装冊子本、原表紙を存し、外題を「三箇院家抄第『幾』」と中央に墨書し、左下に「大乗院」とある。料紙には書状などの紙背が利用されている。本文は半葉八ないし九行に書かれている。
 第一冊は、外題右肩に『院家相承雑事』と朱書する。まず「一、三ケ院家相承次第并 山長谷寺内山等事」以下「一、田舎坊人等給」までの標目を掲げている。次いで「三箇院家等相傳次第」として三箇院三家とこれに準ずる法乗院、伝教院、喜多院二階堂に関する各々の堂塔、聖教等、所領庄園、本願、歴代院主の相承次第などを記している。次に「雑務年中調進」「京上人夫傳馬并下司召馬事」をはじめとする公事、夫役の編成などを詳掲する。その後、「諸給分事」「別給輩非衆分」「坊官侍等給分」「出世方給分」などとして上下北面、院仕、童子、力者、坊官、奉行、商人名主、坊人ら大乗院門跡の人的構成とその給分や給田などを詳細に列挙する。なお、力者には馬飼、牛飼が含まれ、また塗師、経師ら職人や諸々の座が確認できる。
 第二冊は、外題右肩に『諸庄薗等』と朱書する。「目六」として楊本庄から森屋庄に至る大和国六五か庄、続いて藤井両庄から荒蒔に至る国中一一四か庄(以下、追加あり)、さらに伊賀国大内東庄から近江国伊庭庄に至る国外三二か庄(追加あり)の庄園目録を掲げる。各庄名の右肩に領主、双行にて田数と所在地とを記し、また朱書にて目録番号を付す。巻頭の目録にそいながら庄による精粗の差はあるものの、古今の田地帳などを庄別に集成して記している。たとえば、楊本庄は大乗院にとって大和国内最大の庄園で、つねに中心所領「十二ケ所等所領」の筆頭にあげられており、添上郡の神殿庄とともに雑務職方料所とされていた。
 第三冊は、外題右肩に『〓山方正願院』と朱書する。標目がなく、はじめに「正願院御塔御堂御佛事帳」と記し、以下において年中の仏事用途などに関する具体的な記述が中心になる。次いで院領の当知行分の庄園の実状などを記している。現状の裏表紙見返には「正願院勤行并院領引付」(中央)、「寛正二年八月 日」(右)、「大乗院」(左下)とあり、本巻の内容と一致することから、元表紙であった可能性が高い。元・原表紙ともに本文料紙よりも厚手で堅い料紙が用いられていることは、中世の冊子状記録の体裁をよく伝えている。
 第四冊は、外題右肩に『諸供諸納所』と朱書する。原表紙の次に「横田本庄田代并坪付等注文」(中央)、「寛正六年三月 日」(右)、「大乗院」(左下)と元表紙がある。見返に後鳥羽院によって寄進された北円堂領として横田本・新庄、古木本・新庄以下を掲げる。中扉には「東御塔供田補任」(中央)、「大乗院」(左下)とあり、諸供の補任などを付載している。文明・明応期の追筆が多くみられ、随時内容の補正を図っていることがうかがえることは、応仁の乱以降の所領の支配維持に腐心する大乗院門跡の姿を彷彿させるものがある。
 尋尊は応仁の乱が一応の終結をみた直後の文明九年十二月十日(『大乗院寺社雑事記』同日条)に、庄園領主の立場から、将軍の下知に従わず年貢も上納しなくなった国々を列挙して、嘆きの文章を綴っているが、本書は庄園領主自らが庄園支配や寺院運営に苦慮する実情を具体的な数字で示している稀有な史料であるといえる。
 『三箇院家抄』は中世における大乗院門跡の人的構成を示し、かつ門跡領庄園の土地台帳として庄園関係史料の集大成されたものであり、寺院経済史や庄園史研究上にきわめて貴重な史料である。

三箇院家抄

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