本茶入は、古瀬戸茶入ではやや大振りの作品で、端正な形姿と鉄釉の明るい釉調には品格があり、透明感のある柿釉地に黒い斑紋が現れ、鮮麗な釉景色を作りだす。和物茶入の優作を焼造した瀬戸の茶入を代表する作行優れた作品である。和物茶入を新たに茶道具として見いだした小堀遠州(一五七九-一六四七)が終生愛蔵した茶入で、袋が八種に牙蓋が八枚、さらに棚なども伴い、遠州蔵帳で古瀬戸茶入の筆頭に挙げられる。小堀家伝来、中興名物。
茶会記の記録によれば寛永二年(一六二五)十月二日や寛永十三年(一六三六)五月二十一日の品川・将軍御成など数多く用いられている。
なお、銘は室町時代末期に泉州堺の在中庵に住した道休が所持したと伝えられ、これにより遠州が「在中庵」と命名したと伝えられる。また道休所持より「道休肩衝」ともいわれる。
付属する茶入袋には大燈金襴・鶏頭金襴・白茶地段織莫臥爾など各種の名物裂をあつらえ、挽家には一節の竹をみごとに用いる。四方盆は唐物黒輪盆で、巣入と木口挽の象牙蓋が添う。棚は本茶入を使用するために作られたもので「在中庵棚」と呼ばれる。小堀遠州書状は水野兵九郎のために本茶入を質屋に預け七千両を用立てる手はずがついたことを知らせる書状である。いずれも本茶入の格別の扱いを示す資料として貴重である。