当時の秘仏本尊として祀られる六臂【ぴ】如意輪観音像で、樟の一材から像身のすべてと岩座までを彫成する。彩色は僅かに唇に朱を点じるのみで、眉目や宝冠の文様を墨描きする他は、素地のままに仕上げている。屈曲の強い樟の老樹が用いられたようで、岩座は空洞や材の朽損部を巧みに利用して、凹凸が表現されており、江戸時代に書かれたこの寺の縁起にいう霊木・神木の類を用材としたものかもしれない。
全体の造形には、この種素木【しらき】造の像に間々みられる簡略化の傾向が示されるものの、円満な相好、丸味をおびた姿態、薄く柔かい衣の表現に、平安後期の特色が顕著に認められる。
六臂の姿は、種々の経典儀軌に説くところと大きく異なるところはないが、一般に蓮華を執ることの多い左第一手は、〓無畏印風に掌を前に向けてたて、五指を伸ばしている。左第二手は、経軌に「光明山を按【おさえ】る」と説くところを表わしたもので、ここにいう光明山とは観音浄土補陀落山のことである。
この種補陀落山上に坐す六臂如意輪観音像は、平安末期の図像中にその例を多くみることができるが、彫像では本像の他にその確かな遺例を知らない。おそらく、平安時代の作例としては現存唯一といえるのではないか。
保存状態の良好なことも特筆され、本体に合わせて右傾する特異な形の板光背も一具同作のもので、六臂のすべてと持物の一部までを残しているのも賞される。
なお、大和郡山の西方寺には、本寺旧蔵の一切経が伝えられているが、その第Ⅰ期の書写事業が進められた承徳~保安年間(一〇九七-一一二四)を、本像の製作時期にあてても矛盾はない。