本書状は近時新出した後光厳天皇(一三三八-一三七四)の書状で、その筆跡等よりみて、両通ともに重臣の勧修寺経顕に宛てたものであることが判明する。
第一通は、伊勢国小倭陣にて高山十郎保光らが東大寺八幡宮前神主紀延広を殺害したことに絡む延文元年七月の東大寺八幡宮神輿入洛事件に関するもので、内容から延文元年(一三五六)十二月の書状と認められる。この問題について、幕府の有力武将である佐々木導誉が相談に応じないため、尊氏との直接交渉の必要性を述べ、今後の導誉に対する話の進め方などについて思い悩んでいることや、現任の参議による討議が、容易にまとまらない状況などを報じている。文中の「経方卿」は、勧修寺経顕の子の経方で、参議をへて、延文元年十二月二十五日には従三位に叙されている。また「教光」は武者小路教光で、従三位に叙されたのは延文三年正月六日である。このことから本書状の執筆は、経方が従三位に叙されてより、教光が従三位となるまでの間に限定される。しかも昇進後はじめて正月の儀式に臨む経方の腹病を天皇が心配しているのは、本書状が延文元年の年末に書かれたことを示している。
第二通は、本紙のみであるが、湯治の日数および官位の昇進に関する内容で、延文元年十二月ころから持病が再発していた経顕に対し、日数を気にせずゆっくりと湯治療養をすべきこと、昇進については武家側の思惑で、自分の意のままに処置されていないことなどを述べている。経顕の昇進は同三年であり、この書状は、延文元年を程遠からぬ時期のものと考えられる。
本書状は、天皇の流麗暢達した筆致を示すとともに、当時の公武の交渉や、公家内部の動きを詳細に伝え、中世史研究上に価値が高い。