清水寺奥院の本尊。この奥院は多宝寺または奥千手院というのが本来の名称で、当寺の創建にかかわる縁起の中に出てくる、延鎮が出会った行叡居士の草庵跡とされる。
本面・脇面および頭上面を合わせて二十七面とし、また合掌手・宝鉢手および脇手を入れて四十二臂の坐像であり、さらに光背には三十三応現身をあらわすという、図像的に特異な像容である。二十七面の千手観音像はほかに立像の例が若干あるものの、坐像となると、現図胎蔵曼荼羅虚空蔵院の同じ尊像がこれと一致する。ところが本像は四十二臂なので、曼荼羅のように真千手にならないという相違点がある。また光背の三十三応現身は、これとは別の要素の加わったことを意味する。なお、宝鉢手の両第二指が立てられて弥陀定印と同じ指の形になるが、これは現図曼荼羅のほか、東大寺や神照寺の各千手観音像など多少の類例がある。このように図像的には錯綜した様相を見せている。
複雑な像容だが、数多い頭上面や脇手を小さめにしかも集中してあらわすので煩瑣な印象はなく、銅製の垂髪や瓔珞をにぎやかに配して(一部亡失)、装飾性は豊かである。やや顎が張って平面的な面相部が京都・遣迎院阿弥陀如来像(建久五年=一一九四、重文)に似ることや、両足部の衣文が和歌山・金剛峯寺孔雀明王像(正治二年=一二〇〇、重文)のそれと基本的に一致することなどから、快慶との関係が一応想定されるがなお同定するには至らない。
清水寺は平安時代末(一二世紀)に何度か火災に遭っている。被害の実態は知られないが、これらの経過をうけて建久四年(一一九三)、興福寺別当覚憲を導師として供養が営まれた。本像の造立はこのころにあったと推定される。初期慶派の良質な作で、かつ図像的に様々な問題を含むという意味で注目に値する作品である。