築地(現・佐賀市長瀬町)に置かれた大銃製造方の考証復元図。幕末の日本では、海防論の高まりの中で洋式砲術とともに火器製造法が学ばれ、各地で洋式砲の製造が試みられるようになった。佐賀藩では長崎の神ノ島・四郎島や伊王島に新設した台場に鉄製大砲を備え付けるため、大量の銑鉄を溶解するのに必要な反射炉は蘭書をたよりに研究し、佐賀城下の築地に完成した。これがわが国初の反射炉である。試行錯誤の結果、嘉永5年(1852)には良好な溶鉄が得られるようになり、鉄製大砲の鋳造に成功した。幕府や他藩からも鋳鉄砲の注文を受けることになった。