毛原廃寺跡 けはらはいじあと

史跡 社寺跡又は旧境内

  • 奈良県
  • 山辺郡山添村
  • 指定年月日:19261020
    管理団体名:山添村(昭2・11・30)
  • 史跡名勝天然記念物

笠間川ヲ南ニセル山麓ニ在リ造立ノ由緒未明ナラザルモ殘存セル礎石ノ規模及配置遺瓦ノ文樣等ニヨリテ奈良朝時代ノ大寺ノ遺阯トシテ見ルベキモノナリ
S54-6-052[[毛原]けはら]廃寺跡.txt: 毛原廃寺跡は、金堂・塔・中門・南門などに精巧な加工の施された礎石が遺存する奈良時代の寺跡で、大正15年10月20日に史跡指定されている。昭和54年に追加指定するのは、本廃寺跡の北東約3キロメートル、名張川左岸に接する丘陵斜面にある窯跡で、昭和53年10月、奈良県教育委員会が発掘調査を実施して、出土瓦から毛原廃寺所用瓦を焼成した窯であることが判明したものである。
 窯はロストル式平窯で、焼成室の現存する平面規模は幅1.5メートル、奥行1.2メートルをはかり、7本の焔道は奥壁から斜め上方に立ちあがる3本の煙道に接続する。煙道は平瓦を上下に組み合せた構造である。出土した軒瓦は、複弁八葉蓮華文軒丸瓦と均整唐草文軒平瓦各1種で、毛原廃寺跡出土瓦の1型式と一致するものである。

令和3年 追加指定
毛原廃寺跡は奈良県の東山間部、名(な)張(ばり)川の支流笠(かさ)間(ま)川左岸の山麓に営まれた奈良時代前半の寺院跡である。標高約270mの笠間川北岸、南に傾斜する緩斜面地にあり、現在の毛原集落の宅地や畑地内に礎石が残る。大正7年に礎石売却の可能性が生じたことを受け、奈良県史跡勝地調査委員会の西(にし)崎(ざき)辰(たつ)之(の)助(すけ)が現地調査を行い、山間部に所在する稀有な伽藍跡として、大正15年に史跡に指定された。
南門・中門・金堂跡とみられる礎石がほぼ原位置に存在しており、南門は桁行5間(16.3m)、梁行2間(6.5m)、中門は桁行5間(17.8m)、梁行2間(5.9m)の南面する門で、中門の北方約42mに桁行7間(24.3m)、梁行4間(13.3m)の四(し)面(めん)廂(びさし)の金堂がある。これらの建物は円形柱(はしら)座(ざ)と地(じ)覆(ふく)座を作り出した礎石が良好な状態で保存されている。
西崎や上(うえ)田(だ)三(さん)平(ぺい)の報告によると、金堂の南西にもかつては礎石の存在する箇所があり、それらの配置から毛原廃寺の伽藍は、薬師寺式伽藍配置あるいは変則的な大安寺式伽藍配置の可能性が指摘されている。また、昭和13年には、金堂の西方約120mの水田から、複数の礎石が発見され、調査を行った奈良県技手の黒(くろ)田(だ)昇(のり)義(よし)によって食(じき)堂(どう)の可能性が指摘された。
平成28年に昭和13年の礎石発見地点の南側を通過する県道の拡幅工事が計画され、奈良県立橿原考古学研究所が発掘調査を実施したところ、黒田が調査した礎石建物を再確認するとともに、礎石1基と瓦や土師器等の遺物が出土した。再発掘された礎石建物は、その周囲が建物廃絶後に削平されていたが、東西19m、南北7mの範囲に基壇が遺存しており、調査範囲の北側に続くことが予想される。礎石建物は奈良時代前半頃に造営された桁行5間(16.2m)、梁行4間(10.8m)の東西棟の瓦葺礎石建物と想定され、礎石抜き取り穴が11基検出された。南から2列目の柱列には地(じ)覆(ふく)石(いし)の根(ね)石(いし)が列状に検出されたことから、その南1間分は吹放しになる可能性が考えられ、本建物は仏堂の様式に近いことが示唆された。周辺は礎石建物を中心とした別院であった可能性があり、毛原廃寺を構成する施設のひとつとみられる。奈良県は遺構の重要性に鑑みて県道工事の設計変更を行い、盛土による保護層を施したうえで、道路下に遺構を保存することとした。
毛原廃寺は奈良時代前半に奈良盆地東部の山中に創建された巨大な寺院であり、その規模は唐(とう)招(しょう)提(だい)寺(じ)に匹敵する。寺院建立の背景については東大寺領板(いた)蝿(ばえ)杣(そま)の経営拠点とする見方や僧尼の山林修行の場とする見方などが示されているが、文献史料に記録がみられず決着をみない。しかし、飛鳥時代後半から奈良時代にかけて、奈良盆地縁辺の山中には複数の寺院が建立されており、毛原廃寺はそれらの寺院の中でも突出した規模となる。平城宮系の軒瓦を採用するなど官との密接な関係を持つ寺院である可能性は高く、奈良時代前半の仏教の動向を知る上で重要である。
今回、昭和13年に発見された礎石建物とこれに伴う基壇が残る範囲を追加指定し、保護の万全を図ろうとするものである。

毛原廃寺跡

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