吉備池廃寺跡は,大和三山のひとつ,香具山の北東約1km,桜井市吉備に所在する古代寺院跡である。この地には,江戸時代に造成された農業用溜池である吉備池があるが,その東南隅と南辺の堤に重複して2つの大きな土壇が存在し,瓦片が散布することが知られていた。その性格については瓦窯説と寺院説があったが,池の護岸工事が計画されたことから,平成9年に桜井市教育委員会と奈良国立文化財研究所(現・奈良文化財研究所)飛鳥藤原宮跡発掘調査部が池東南隅の土壇の発掘調査を行った結果,巨大な金堂基壇の存在が明らかになった。その後,奈良国立文化財研究所による中心伽藍の調査,桜井市教育委員会による周辺部の調査により,伽藍の様子が明らかにされてきた。
中心伽藍は,東に金堂,西に塔を置き,両者を回廊が囲み,中門は金堂の正面に位置するという特殊な配置をとる。金堂基壇は東西37m,南北28m,高さ2m以上,塔基壇は1辺30mの正方形で,高さ約2.8mと推定される。この両者は,いずれも,飛鳥時代の古代寺院の中では隔絶した規模をほこるが,特に塔の基壇は,文武朝に建立された大官大寺のものに匹敵することから、塔自体も高さ80〜90mと推定されるその九重塔に近い規模であったと考えられる。伽藍の北部には大型の掘立柱建物が列をなして並び,僧坊跡と推定されている。さらに,中門の南約40mの地点からは,寺域の南面を画すると考えられる16mの間隔をおいて平行する東西溝2条および,南大門と考えられる建物跡も検出された。出土した瓦から見て,創建時期は7世紀前半頃と考えられるが,伽藍規模に比較して瓦の出土量が少なく、基壇外装も見つかっていない点などからみて,短期間のうちに他に移築された可能性が指摘されている。
以上,吉備池廃寺は,その規模,および飛鳥地域に建立されたことからみて,氏族の単なる氏寺ではなく,何らかの公的性格を持った寺院と考えられる。現在のところ,創建時期,伽藍の規模,および短期間内で移築された可能性などから見て,この寺院が平城京の大安寺や文武朝大官大寺の前身で,九重塔を持っていたとされる舒明天皇による史上初の勅願寺,百済大寺(639年発願,673年移築)である可能性が指摘されている。このように,本遺跡は,この時期の中心地である飛鳥の地にあっても屈指の規模をもつ寺院跡で,極めて貴重なものといえる。よって,史跡に指定し,保護を図ろうとするものである。