S50-12-054[[清水山]しみずやま]城跡.txt: 文禄・慶長の役に際し、豊臣秀吉は朝鮮出兵のための本陣として、肥前国松浦に名護屋城を築いたが、同時に玄海灘を隔てた出城として、壱岐島に勝本城を、対馬に清水山城を構えた。
勝本城は、一名[[武末]たけすえ]城とも呼ばれ、松浦宗信(鎮信)が奉請に当たり、有馬晴信・大村嘉前・五島純玄が補佐役を務め、短時日の間に工を終えたと考えられる。壱岐島の北西部、通称城山の山頂部を中心に構築され、その中心部は「東西36間、南北32間」であったと伝えられる。現在、山頂部には、北に開口する虎口の枡形が良好に遺存し、その左右の石垣も良く旧状をとどめている。建物類は慶長の役後取り壊わされたが、山頂の本丸跡には礎石と思われるものが多く残っている。
清水山城は、現在の[[厳原]いづはら]町の中心部の西に接する独立状の丘陵清水山に営まれ、構築に際しては、森(毛利)高政が責に当たったといわれている。馬背状の稜線上に地形に即しつつ、東から西に順次三の丸・二の丸・本丸を階段状に配し、三の丸と二の丸との間は細長い連絡部を設けている。各曲輪の入口には門枡形がつくられ、本丸と二の丸跡のそれは、ほとんど旧状のままである。本城は、稜線の両側を石塁をもって防禦していることや、本丸の平面形態がほぼ円形に近いことなど、近世初頭の城郭としては、やや特異の形状を示している。
これら2つの史跡は、特別史跡名護屋城跡並陣跡と共に、文禄・慶長の役関係の遺跡として、また、近世初頭の陣城遺構として、歴史的意義の大きいものである。