金田城跡 かねだじょうあと

史跡 城跡

  • 長崎県
  • 対馬市美津島町
  • 指定年月日:19820323
    管理団体名:
  • 史跡名勝天然記念物

S54-6-025金田城跡.txt: 天智天皇称制6年11月、倭国高安城、讃吉国山田郡屋嶋城とともに築かれた対馬国金田城は、鶏知中心部の北西方、上島・下島2島間の浅茅湾に半島状に北に突出した竹敷の城山の地にある。
 城は、半島東面に3つの城門を設け、北より一ノ城戸・二ノ城戸・三ノ城戸と通称されている。各城門には、谷間を塞ぐように石積がなされ、水門及び門が設けられていたらしい。城戸開口部の石積は通称三ノ城戸が最も高かったようで、通称一ノ城戸及び通称三ノ城戸には水門が残っている。通称二ノ城戸及び通称三ノ城戸には、門礎石が原位置よりやや動いた形で残っている。各城門間は、自然の岩のない所は、山の自然地形を利用しながら石塁で結ぶのを原則としていたらしい。通称一ノ城戸より北においては、石塁は半島北端に及び、西折して北面のほぼ中間点まで続いている。
 半島西面は、急崖のため、踏査が完全には行われていないが、山頂部付近の高所に石塁が認められるため、東面と同様、自然岩のない個所には、石塁を築いている個所が存する可能性がある。しかし、急崖をなす地形より考え、石塁があったとしても、東面のような長さにはならないようである。石塁は山頂部より東に折れ、おそらく通称三ノ城戸南方の石塁につながるものと思われる。西面の谷筋や西に突き出ている稜線等の部分は踏査されていない。
 山頂部南下方や通称三ノ城戸と通称二ノ城戸の間、通称二ノ城戸と通称一ノ城戸の間には平坦地があるが、通称三ノ城戸と通称二ノ城戸の平坦地では土師器が採集されたというところから、これらの平坦部には、建物跡等が存在した可能性がある。大蔵忌寸麻呂が「多可思吉能宇敞可多山者久礼奈為能也之保能伊呂〓(*1)奈里〓(*1)家流香聞」(「万葉集」)と詠んだ「宇敞可多山」は、この金田城であろうという説がある。
 金田城については、江戸時代以来、この城山説と現在の厳原町金田原説等が行われ、地名比定から金田原説が有力であった時期もある。一方、城山一帯は、明治以降、第二次世界大戦終結時まで要塞地帯であったため、踏査は殆んど不可能であった。終戦後も、九学会による対馬の総合調査以外は、城山の組織的な踏査は行われていないが、立地、残存遺構より考え、金田城と断定してさしつかえない。
 昭和54年、[[白村江]はくすきのえ]の戦後、西国防衛の最北端に築かれた金田城の重要性と、遺構の良好な遺存状況にかんがみ、これを特別史跡に指定する。

金田城跡

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