絹本著色聖宝像 けんぽんちゃくしょくしょうぼうぞう

絵画 / 南北朝

  • 南北朝
  • 1幅
  • 重文指定年月日:19920621
    国宝指定年月日:
    登録年月日:
  • 林昌院
  • 国宝・重要文化財(美術品)

 醍醐寺の開山、理源大師聖宝が延喜九年(九〇九)に入滅したあと、同十一年もしくは十二年に、弟子で後に第二代座主となった観賢が御影堂を建立した。そこに安置された木像は、観賢が師の在世中に造像したと伝えられる。この像は文応元年十一月に焼失したが直ちに再造され、翌、弘長元年(一二六一)七月に開眼供養がなされ、今に現存している。このとき手本となったのは、教阿弥が根本木像から写しとった報恩院安置の画像とされる。同じ頃に阿弥号を称した絵師には、親鸞上人の「鏡御影」を描いた専阿弥陀仏がいたので、全く根拠のない伝承とは思われない。
 本像の旧外題には「開山尊師御影〈教阿弥筆/〉醍醐山釈迦院什物」とある。この像も教阿弥筆とされてはいるが、釈迦院什物と記されており、南北朝期における報恩院本画像の写本と見るべきであろう。釈迦院は隆勝法印(一二六四-一三一四)が草創した院家である。「報恩院相伝手継文書」によれば、隆勝は永仁五年(一二九七)二月に憲淳より、報恩院の房舎、本尊など一切を譲られている。また、隆勝の弟子の隆舜は文和元年(一三五二)十月に、建武三年(一三三六)に焼失して「当時回禄跡」となっていた報恩院と、現存する釈迦院を弟子に譲っている。二つの院家が一体となって相伝されている間に、釈迦院の什物として報恩院本が写されたのであろう。この画像はかつて、醍醐寺に現存する弘法大師像とともに一つの箱に納められていた。本像の修理銘「應永廿五年戊戌卯月〈修口/〉」は、大師像の修理銘「應永廿五年戊戌卯月〈修復供養/〉醍醐山釈迦院」と一致する。
 三道などに形式化した表現が認められるが、なお、肩幅の広い平安時代初期の高僧像の風格を伝えている。聖宝像には古い作例がなく、本図の存在は貴重である。

絹本著色聖宝像

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