歴史資料/書跡・典籍/古文書 その他 / 安土・桃山 平安 室町 鎌倉 南北朝
台明寺は鹿児島県国分市台明寺に存在した天台宗の古刹で、寺伝によれば天智天皇の勅願で創建されたといい、青葉竹貢御所として境内に生育する竹を蔵人所に貢納するようになったと伝えられる。平安時代には朝廷の鎮護国家の道場、鎌倉時代には関東御祈祷所となり、その間、売買・寄進などによって寺領を拡大し、のちに島津氏の支配下にあって繁栄したが、明治初年の廃仏毀釈により廃寺となった。
現在、本文書は東京大学史料編纂所が所蔵する島津家文書中の、黒漆塗特二番箱に収められた「台明寺文書」二巻、および他家箱台明寺文書二番箱に収められた「台明寺文書」五巻からなっている。本文書が島津家文書として伝来するに至った経緯については、従来、廃仏毀釈に際して収納されたものとみられていたが、元禄十六年(一七〇三)には藩記録所の管掌下に入り、島津家重書とともに保管されていたことが近年明らかにされた。
文書は、総点数一七八通のうち、平安時代のものが二二通、鎌倉時代のものが約一三〇通と、鎌倉時代以前の文書がその大半を占める。文書は、綸旨、国司庁宣、関東下知状や、守護書下などがあり、なかでも青葉笛竹貢納にかかわる蔵人所下文や、大隅正八幡宮執印行賢の関係文書、田地寄進状・売券のほか、在庁官人税所氏や守護代安東氏との相論など、当寺の変遷を伝えるものが少なくない。
文書中、長久二年十一月十二日大隅国司庁宣案は、案文ではあるが、国司庁宣の初見史料として注目される。また、青葉笛竹の調進について蔵人所召物使と住僧らとのやりとりを示す平治元年(一一五九)七月十一日大隅国留守所移をはじめ、応保二年(一一六二)五月十五日台明寺住僧大法師遍覚等解状など、寺領の維持に奔走していた様子が具体的に知られる史料が多い。
鎌倉時代以降の文書のうち、笛竹使の新儀非法を停止し、在庁官人とともに笛竹を調進すべきことを命じた建仁二年(一二〇二)十月日、建仁二年壬十月日の二通の蔵人所下文は、現存稀な正文の遺例として貴重である。同社に対する島津氏の格別の崇敬がうかがえる建仁三年十月十九日島津忠久願文や、守護や在庁官人との相論の内容を伝える仁治元年(一二四〇)十月三日大隅台明寺牒案や、文保元年(一三一七)五月七日大隅守護代安東景綱請文などのほか、公験文書を所領ごとに分類した文永元年(一二六四)十二月廿四日大隅国台明寺文書目録や、南北朝時代の造営事業の内容を伝える貞治四年十一月日鐘楼上葺支配注進状なども含まれていて注目される。
以上のように、本文書は、とくに青葉笛竹の貢納を中心に台明寺の変遷にかかわる平安・鎌倉時代の文書がまとまっているのが特徴であり、九州における古代・中世の社会経済史上に不可欠の文書として価値が高い。