木造阿弥陀如来及両脇侍像 もくぞうあみだにょらいおよびりょうきょうじぞう

彫刻 / 鎌倉

  • 鎌倉
  • 3躯
  • 重文指定年月日:20020626
    国宝指定年月日:
    登録年月日:
  • 保寧寺
  • 国宝・重要文化財(美術品)

 定印を結ぶ阿弥陀如来坐像を中尊とする三尊像である。中尊の像内銘により建久七年(一一九六)に大仏師宗慶により製作されたことが判明する。宗慶は治承元年(一一七七)康慶作の静岡・瑞林寺地蔵菩薩坐像(重文)の銘文に結縁小仏(師)等として名がみえ、寿永二年(一一八三)のいわゆる運慶願経にも快慶、源慶、静慶ら慶派仏師とともに結縁している。
 いずれもヒノキ材製で、中尊は頭躰幹部を一材より彫出して前後に割り、内刳を施し、割首を行う。両脇侍も同様かと思われるが詳らかでない。中尊はこれに肉髻、左肩外側部、右腕(肩・臂・手首で矧ぐ)、両足部等を寄せる。両脇侍は髻(左脇侍は亡失)、両腕、両足首以下等を矧ぐ。ともに玉眼を嵌入する。表面は現状、像内修理銘にある寛文六年(一六六二)に施されたとみられる堅地漆箔に覆われる。
 像は中尊、脇侍とも厚みのある躰型で各部に張りの強い肉付けを施し、着衣には動きのある大振りな衣文を刻む。その若々しく力強い表現は文治五年(一一八九)康慶作の興福寺南円堂不空羂索観音像(国宝)をはじめとする初期慶派作例に通有のもので、宗慶が康慶工房の一員であったことが首肯される。材を厚めに残して丁寧に浚う内刳の仕方にも同派の特色がよく表れている。中尊の上躰を強く後傾させた姿勢は本像独特のものであり、ややまとまりに欠ける印象もあるものの、そこには慶派様式が未だ完成に至らぬ時期における一種の初発性を認めることも可能である。
 像内銘にある大施主藤原弘□は、不明の一字の字画からみて武蔵七党の一つ、児玉党より出て現在の本庄市四方田を本拠とした四方田弘綱である可能性が強いことが推測されている。弘綱の近親者には、一ノ谷の合戦で軍功を挙げた叔父高家、文治元年(一一八五)の鎌倉勝長寿院供養や建久元年(一一九〇)の頼朝入洛、同六年の東大寺大仏供養に供奉した兄弘長らがあり、一族が幕府の中堅の地位にあったことが知られる。
 関東御家人のために慶派仏師が製作した遺品として他に、やはり運慶願経に名がみえる実慶の手になる、静岡・桑原区阿弥陀如来及両脇侍像および同・修禅寺大日如来坐像が、近年その存在を確認され、ともに国指定を受けている(桑原区像・平成四年、修禅寺像・平成五年)。本像はそれらと並んで慶派の東国における活動をうかがう上で重要な遺品であり、作者名が判明する同派の初期作例としても存在意義が大きい。

木造阿弥陀如来及両脇侍像

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