仏伝経典の代表的なものである「過去現在因果経」に絵を付した写経を、「絵因果経」と称しており、中でも奈良時代の製作になるものは「古因果経」と呼んで珍重されるが、本巻はその一例である。四巻本「過去現在因果経」の各巻を上下二巻に分けた、八巻一具として作られたもので、その巻第三の上である本巻は、悉達太子の出家後の修業期を表わしている。
全巻を通して上下二段に分かち、下段に経文を一行八字を基準に書写し、上段には経文に対応する絵を、場面の転換をはかりながら、連続的に描く。小さい絵ではあるものの、人物の顔貌など細部までこまやかな表現が見られ、巻頭に近い部分で多少剥落が見られる他は、保存も良い。
古因果経諸本は、それぞれに画風の差異を示すが、本巻は、諸本に共通の古朴な様式に基づきつつも、人物と景観との比例などに、自然な表現への意識を働かせているのが特徴である。経文の書風は、他本の様な通常の写経生の厳格な書風とは異なると見受けられる。これらのことから、製作時期が若干下降するという意見もあるが、その点はなお検討を要するところであろう。
なお本巻の巻頭には「興福伝法」の印が捺されており、もと興福寺伝法院に蔵された一本であることが判る。同じ印が東京芸術大学本(巻第四下)にもあり、これら両本は一具であった可能性もあるが、作風には明瞭な差が認められるので、断定することは難しい。
古因果経は、断簡となったものを含めて、五巻が現存するが、本巻は同巻次である醍醐寺本と並んで、一紙の欠落もなく伝えられた一巻として、極めて貴重な遺品である。