慈眼院多宝塔 一基
寺伝によれば、慈眼院は白鳳時代以来の寺院で、のち弘仁年間(八一〇~八二四)空海が造営したというが、天正年中(一五七三~九二)兵火にかかり、以前のことは明らかでない。多宝塔の建立年代は、文永八年(一二七一)というが、様式からも肯定してよいであろう。規模の小さい多宝塔で、屋根は檜皮葺である。上重は多宝塔の法式通り円形塔身で、四手先組物であるが、軒天井を七宝つなぎとするなど、若干の変化がある。下重は二手先組物で、多宝塔としては複雑な部に属する。中備の蟇股は、内部に鰭状の文様があり、この部分が装飾化する一過程を示している。
内部には四天柱がなく、一室となり、天井は折上小組格天井で、中央部をさらに二重折上としている。室内の仏壇も塔と同時のもので、横連子と格狭間の二重仏壇となり、壇上に擬宝珠高欄を置いている。仏壇の後壁は蕨手付きの笠木を備えた珍しい形式である。塔は明治三十六年の修理の際に移動したとき基壇を設けたため、外観をかなり損しているのは惜しいが、鎌倉時代多宝塔の代表例の一つである。
【引用文献】
『国宝辞典(四)』(便利堂 二〇一九年)