天台宗谷流の祖として知られる皇慶(九七七-一〇四九)が、その没する前年に弟子安慶に与えた附嘱状と起請である。
いずれも未表具のままに伝来したもので、このうち附嘱状は永承三年(一〇四八)七月二十三日付で、弟子安慶に顕密の法文、仏像、道具等を与えたものである。文中で皇慶は先師静真の遺戒に従い、若年ではあるが瀉瓶の弟子として安慶を選び、これに法文以下を附嘱することとした次第を述べ、上﨟の人といえどもこれに異を唱えることのないよう重ねて記している。年紀についで皇慶の自署があり、更に本文と同筆で「件付属有実、仍加證署」として山内の上﨟達による証判が加えられている。『僧綱補任』(興福寺本)等によれば、草名等を加えている人物は、少僧都良円、権少僧都明快、権少僧都慶範等で、いずれも皇慶の附法をうけ、当時の僧綱位にあった人である。これについで、同じく皇慶流の阿闍梨定誓、覚尋、内供奉某等三名の連署がみえている。
起請は、同年八月二十三日付で顕密の法門等の寺外への持出しを禁じた置文で、日下に皇慶の自署がある。皇慶はこの中で、法門等を安慶に附属したからには自分の没後は、たとえ一紙一巻といえどもこれを経蔵の外へ借り出すことを厳禁している。
皇慶は橘広相の孫で、七歳で叡山に登り、静真等に師事し、台密をはじめとして東密、悉曇にも通じ、天台座主を勤め、台密十三流の祖、谷流の開祖となった人物で、谷阿闍梨【たにのあじやり】と呼ばれた。また丹波国桑田郡池上に住したので、丹波阿闍梨、池上阿闍梨とも称され、永承四年七月二十六日叡山東塔井房において七三歳をもって示寂した。
この附嘱をうけた安慶は、長宴、院尊と並び称された皇慶門下で、皇慶の甥と伝え、池上の嫡流として谷阿闍梨、井房阿闍梨と称した。
この両通は、類例少ない十一世紀の附嘱状、置文の遺例として、また伝来稀な皇慶の文書として注目される。