本図は京都の有名社寺に伝わる大絵馬の中でも屈指の大きさをもつものである。画面は上方三分の二は八枚、下方三分の一は九枚の板を左右に並べて作られている。また、本図は大きいだけではなく、京都にのこる絵馬の中では天正二十年(一五九二)に長谷川久蔵が描いた清水寺の「朝比奈草摺曳図」(重文)につぐ古さをもっている。しかし、もっとも重要な点は本図が桃山時代を代表する絵師の一人である長谷川等伯によって描かれているところにある。京都に伝存する絵馬は少なくないが、桃山期著名画人の手になるものは稀で、他には北野天満宮の曽我直庵筆の絵馬二面、妙法院の狩野山楽筆の絵馬一面がある程度である。
本図は等伯七十歳の時の作で、それは没する二年前にあたるが、等伯の筆力は旺盛で、画面いっぱいに疾駆する黒馬、馬上には抗う昌俊と弁慶の魁偉な姿が力強く描かれている。この画題は『平家物語』巻十二「土佐房被斬」、謡曲「正尊」、幸若舞「堀河夜討」などで知られるもので、ここでは病を称する昌俊を、弁慶が力ずくで義経のもとに拉致する場面が選ばれており、二人の緑地に金泥盛りあげによる唐草や輪宝文が施された衣や直垂が総金地に映え、いかにも桃山時代らしい、豪快な趣きとなっている。
さて、本図には四か所に墨書があるが、画面向かって右端の墨書はいかなる理由によってか一度ならず書き改めているため、判読に困難がともなうが、仮につぎのように読んでみる。
「□ □/平朝伊豫守平朝臣真勝武運長久□敬白
佐久□□勝武運長久息□(災)延命息□(息)災延命
奉掛 □(房)【カ】敬白
奉掛神前
御神前 宿坊
能探
慶長拾三□〈(戊)/申〉暦
六月吉祥日
自雪舟五代
長谷川法□【(眼)】等伯七十歳」
これによれば本図の奉納者は慶長九年(一六〇四)に従五位下伊予守となり、寛永十九年(一六四二)に七十二歳で没した佐久間真勝と推測される。なお、能探は北野天満宮宮仕のひとりで、慶長四年(一五九九)から明暦元年(一六五五)までの生存が確かめられ、それぞれ慶長十三年(一六〇八)の年記と矛盾しない。
佐久間真勝は江月宗玩に帰依し、宗玩は春屋宗園に師事した。江月宗玩が開祖となり、慶長十三年に落成した竜光院や、春屋宗園が開祖となった三玄院には等伯の襖絵があったことが知られている。こうした事情から、佐久間真勝の依頼を受けて等伯がこの絵馬を描くことになったものと思われる。