木造三浦義明坐像(御霊明神社安置)

彫刻 / 鎌倉

  • 鎌倉
  • 1躯
  • 重文指定年月日:19930120
    国宝指定年月日:
    登録年月日:
  • 満昌寺
  • 国宝・重要文化財(美術品)

 三浦義明(一〇九二-一一八〇)は三浦半島に勢力を張り、治承四年(一一八〇)の源頼朝の平氏追討の挙兵に呼応、本拠たる衣笠城に平氏の軍勢を迎えて壮絶な戦死を遂げた。建久五年(一一九四)、頼朝は義明追福のために一堂の建立を命じた(『吾妻鏡』)が、衣笠城の東に位置する本寺がその後身に当たるとされている。境内には鎮守の御霊明神社があり、本像はその主神として伝えられている。
 檜材の寄木造、頭体幹部は前後二材よりなり、両肩外側部に各竪一材を矧【はぎ】付け、像底を残して内刳【うちぐ】り、袍【ほう】の襟内側に沿って割首【わりくび】とする。これに両足部横一材、両袖口、体側に張り出す両袖(各三材)、腰背面の下襲【したがさね】、両手等を別材とする。表面は現在、後補のサビ下地で覆われ、冠、玉眼、両足部地付廻り材の下に当てる薄板、持物、台座を後補とする。
 『吾妻鏡』によれば没時八九歳であったというが、本像はその皺深く髯【あごひげ】を長く垂らした面貌から晩年の姿を表したものと知られる。幅広の両肩をいからせ、袍の袖を左右に広げた正面観には威風があり、一徹な老武将の姿を彷彿とさせるが、衣文の簡潔な扱いには神像彫刻を思わせるところもある。猫背で背中の盛り上がった体形は老いた像主の姿を表したものとみられるが、鎌倉後期以降、中国宋からの舶載彫刻の影響も考えるべきであろう。両足の造形がやや量感を欠いたものとなっている点や構造技法上の特色を考え併せると、製作年代は鎌倉末頃とみるのが妥当とみられる。没後長い年月を経て一種神格化された、当代武人彫像の異色ある作例といえる。

木造三浦義明坐像(御霊明神社安置)

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