飛鳥稲淵宮殿跡 あすかいなぶちきゅうでんあと

史跡

  • 奈良県
  • 高市郡明日香村
  • 指定年月日:19790320
    管理団体名:明日香村(平25・3・22)
  • 史跡名勝天然記念物

S54-12-050[[飛鳥稲淵宮殿跡]あすかいなぶちきゅうでんあと].txt: 飛鳥川の上流、稲淵川の左岸に接する平坦地で、昭和51〜52年の発掘調査により、4面廂東西棟を中心に同棟を北及び東に囲む片面廂の東西棟1・南北棟2の遺構の一部が検出され、極めて計画性・規格性に富んだ整然とした建築遺構であることが判明し、この遺跡が7世紀後半に営まれた宮殿跡であるという推定のもとに、取りあえずその発掘部分のみを「飛鳥稲淵宮殿跡」として昭和54年3月20日史跡に指定した。当時の発掘調査の結果、これらの規格性に富んだ建築遺構は、建替えもなく、その内側の石敷も4面廂の東西棟のさらに南に広く延びて敷きつめられていることが確認され、また、これらの建物遺構が発掘地の平坦部分でさらに南及び西に数棟存在することも確認されていたので、この宮殿跡の歴史的重要性にかんがみ、右の平坦部分を中心に約1万数百平方メートルを追加指定する。
S54-6-042飛鳥稲淵宮殿跡.txt: 飛鳥川の上流、稲淵川の左岸に接する通称「フグリ山」の麓に、およそ10,000平方メートル前後の南北に狭長な平坦な水田地がある。坂田寺跡の西方約200メートルの地点である。
 この地点の中央約720平方メートルが飛鳥国営公園祝戸地区の駐車場建設予定地とされたことから、昭和51〜52年に奈良国立文化財研究所によって発掘調査が実施され、極めて顕著な遺構が検出された。検出された主な遺構は、掘立柱建物4棟と石敷広場とであるが、発掘区内のみについていえば、まず中央に南北14メートル、東西18メートル以上の1辺40センチ前後の花崗岩質の玉石が全面に整然と敷きつめられており、それに南接して桁行5間以上梁行4間のおそらく4面廂の建物と考えてよい東西棟-身舎柱間寸法3メートル等間、柱径25センチメートル前後-があり、次いで北接して桁行8間以上梁行4間の南廂の東西棟、次いで東接して上記東西棟2を「コ」の字型に囲むように桁行15間梁行4間の西廂の南北棟及びその建物の南に続いて桁行2間以上梁行4間の同様に西廂をもつ南北棟のあることが確認された。そして、最初の4面廂東西棟以外の3棟は身舎柱間2.24メートル、柱径約18センチメートルと同一であり、したがって、これらの建物は同一規模のものである可能性が濃厚である。また、最初の4面廂東西棟と北側の南廂東西棟との東側柱列が南北の一直線に位置し、東側の西廂南北棟2棟の柱筋が一致し、さらに4面廂東西棟の妻柱の位置が上記2棟の中間に位置し、最後に4棟全体の建物間距離が3.8メートルの等間隔で配置されていることが知られるから極めて計画的であり、かつ規格性にすぐれた建物配置であったことが認められる。そして、以上のことから南側と北側の2棟は桁行が一致するものと予想されるから、両者の遺構の西半部は未調査であるが、それぞれ9間と14間の建物であったことが復原できる。
 一方、発掘区周辺の地形を考慮すると、東側2棟の南北棟と同様な南北棟の配置の想定も困難ではないので、もしそのように想定できるとすれば、調査担当者の初見によって石敷遺構もさらに西・南の方に広がっているようであるから、本遺跡は4面廂東西棟を中心に東西対称に南北棟2棟が配置されることになり、遺構の性格を明らかにするうえで重要な問題を提起することになる。
 然るに本遺跡は、検出した遺構に重複がなく建替えなどは考えられないうえに柱掘方内から出土した土器などから7世紀中頃に造営され、7世紀末前後には廃絶したと思われる比較的短期間のものであり、造営に用いられた基準尺は前期難波宮跡の内裏東方の門のそれに類似する。さらにまた本遺跡は、瓦類が出土しないうえに、伝飛鳥板蓋宮跡や宮滝遺跡のように建物間に石敷面を有すること、そして上記復原による建物配置が法隆寺東院創立以前の地下遺構として検出された[[斑鳩]いかるが]宮跡といわれるものに近似することなどを総合すると、その性格は7世紀中頃以降に造営された宮殿跡であるとみるほかはないといえよう。これを文献的に有力な候補である『日本書紀』孝徳紀の「倭飛鳥河辺行宮」とも考えられるが断定することは今後の検討をまちたい。
 したがって昭和54年は、宮跡としての遺構の重要性に鑑み、指定可能な駐車場建設予定地を指定して保存することとし、その周辺については条件の整い次第追加指定を審議することとする。

飛鳥稲淵宮殿跡

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