大原幽学(一七九七-一八五八)は幕末の下総東部地方において農民の教化と農村改革運動を指導し、大きな事績を残した。前半生の経歴は明らかでなく、各地を遍歴していたらしい。天保十三年(一八四二)に香取郡長部村(現干潟町)に定住した。天保四年頃から独自の実践道徳である性【せい】(理【り】)学【がく】の教説活動を始め、弟子として入門する者が次第に増えた。門人達は道友と呼ばれ、性学学習用の施設である改心楼や教導所が作られ、そこで会合や教説が行われた。
一方、関東農村は天保二年から八年にかけての飢饉で疲弊しており、幽学は性学道友の農民を指導し、農村の復興を図り、農民が共同の力で自活できるように各種の仕法を行って成果をあげた。しかし急激な性学運動の発展と、農民が村を越え領主を越えて労働と学習を共にすることは幕府の怪しむところとなり、幽学は、幕府で七年間取り調べられた末、安政四年(一八五七)に一〇〇日の押し込めの刑を受け、失意のうちに翌五年三月自殺した。
今回指定した大原幽学関係資料は、幽学没後、性学運動を継承した財団法人八石性理学会から、昭和六十一年に干潟町に寄贈された資料のうち四〇七点である。その内容は(一)著述稿本類、(二)性学教導并仕法関係文書、記録類、(三)日記、(四)書状、(五)遺品類に大別される。
(一)は「性学微味」「性学幽玄考」等幽学の思想を体系的に叙述したものである。
(二)は性学組織の活動に関する主要な資料である。教導関係のものとしては道友の幽学に対する入門誓約書である神文【しんもん】、道友の規範となる書・短文である規矩【きく】や門人の名簿などがある。仕法関係のものは、農地を出し合いその利益の積立により相互扶助をはかる先祖株組合の運営、性学教導施設の普請や労働奉仕である丹精に関する資料が残されている。
(三)は幽学自身の日記の他、性学組織の公的日記、道友の日記も含まれている。また(四)は幽学自筆書状が大部分であるが、幽学宛のもの、道友同士のものも含まれている。
(五)は短刀、衣類、眼鏡、扇子、笠、印章、筮竹、算木、薬草切、薬研等がある。筮竹、算木は幽学が易占に通じていたことを示し、薬草切、薬研があるのも、幽学が薬の処方に関する「配剤録」を残しているように、製薬を行っていたことによる。
以上のように、本資料は幽学の事績を知る上での基本的史料であり、しかも幽学の活動した本拠地に一括して伝来したものとして、貴重である。