観世音寺境内及び子院跡
 附老司瓦窯跡 かんぜおんじけいだいおよびしいんあと
 つけたりろうじかわらがまあと

史跡 社寺跡又は旧境内

  • 福岡県
  • 太宰府市・福岡市
  • 指定年月日:19700921
    管理団体名:福岡市(平24・2・15)
  • 史跡名勝天然記念物

S42-1-014[[観世音寺]かんぜおんじ]境内および[[子院]しいん]跡(福岡県筑紫郡太宰府町).txt: 筑紫観世音寺は、天智天皇が斉明天皇のために誓願してつくられた寺である。草創の年時は不明であるが、7世紀後半に着工されたものと考えられる。しかし、伽藍の完成は容易でなく、養老7年(723)には僧[[満誓]まんせい]が造筑紫観世音寺別当となり、[[天平]てんぴょう]17年(745)には僧[[玄〓(*1)]げんぼう]が造営のため西下している。
 観世音寺が完成したのは、天平17、18年(745、6)ころと思われるので、その完成までには、天智天皇以来実に80余年を費したことになる。天平宝字5年(761)には[[戒壇院]かいだんいん]がつくられ、東大寺・[[下野薬師寺]しもつけやくしじ]のそれとともに、日本三戒壇の一つに数えられている。[[延喜]えんぎ]5年(905)の「観世音寺資財帳」によれば、観世音寺には[[金堂]こんどう]・講堂・五重塔婆・中門・鐘樓・経蔵・燈樓・廻廊・南大門・築垣・戒壇院・菩薩院・僧房・客僧房のほか、多くの大衆院があり、九州随一の大寺であった偉観の様がしのばれる。平安中期から後期にかけて数回にわたって被災し、旧堂塔はことごとく失なわれ、11世紀後半から12世紀前半にかけて、この寺は東大寺の末寺となった。
 現在の観世音寺にある建物はいずれも江戸時代のものであるが、金堂跡・講堂跡には礎石が残り、塔心礎も遺存している。礎石の状況より判断し、観世音寺は中門をはいると塔と金堂が東西に向かい合い、南北中軸線上に講堂がある伽藍配置であったと推定される。史跡指定に当たっては、治安元年(1021)の古文書にある寺領と、後世、子院四十九院が史料に見えることを勘案し、現観世音寺を中心とする平地と北方の山林等を指定範囲とした。

観世音寺境内及び子院跡<br />
 附老司瓦窯跡

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