『賀茂神主経久記』は、賀茂別雷神社の神主であった経久の自筆原本の六帖からなり、漢字仮名交じり文で書かれている。
経久は氏久男として建長四年(一二五二)に生まれ、弘安九年(一二八六)に権祢宜、正応五年(一二九二)に祢宜、永仁元年(一二九三)に兄久世の譲りを受けて神主となり、以後延慶元年(一三〇八)に辞するまでその地位にあった。井関神主と号し、西賀茂正伝寺の開祖とされている。また『新後和歌撰集』『玉葉和歌集』などに入集した歌人でもある。
『乾元二年日記』は、原表紙から第一七丁目まで正安四年(一三〇二)の仮名暦を翻したものに白紙の料紙を重ね合わせて書いている。記事は正月一日条から一二月某日条の貴布禰御幸までである。その内容は神事や行事、賀茂社周辺の動静などが中心であるが、院の御幸を迎える神社側の詳細な記録など、他にみられない記事を多く含んでいる。
『嘉元三年御遷宮日記』は、嘉元三年(一三〇五)に行われた仮殿造営から正遷宮に至る記録で、材木の調達から儀式の次第に至るまで詳細に記述する。正治、建保、文永などの先例に関する記述から、造営は長く古式に則って行われてきたものであること、当時の社司や氏人の組織や役割、賀茂社領庄園に対する賦課のあり方などが知られる。
『嘉元四年摂社遷宮記』は、嘉元四年に行われた賀茂社の摂社である太田社、奈良社、片岡社の遷宮についての記録である。
『御遷宮色々の事目安』は、嘉元三年に行われた遷宮の際に用いられた装束、諸道具に関する詳細な記録である。
『賀茂社嘉元年中行事』は、賀茂社の年中行事について記録したものである。例えば、三月三日の神事では草餅、七月七日には氷などが供され、五月五日の神事では競馬、九月九日の菊の神事では相撲が行われていることを記している。
『賀茂旧記』は、建久四年(一一九三)四月から文永十一年(一二七四)八月に至る。内容は賀茂社周辺の動静を記した年代記である。とくに、承久の乱に関する記事は、「六月八日、ゐんせんとて、神主能久二てうのかわらのゐんの御所へまいれと、社司氏人もよをさる、まいらさらん物は社司は解官、氏人はところをついはうすへしともよをさる」「七月廿七日、神主能久、下祢宜助綱六はらにめしこめらる、同廿八日に解官せられぬ」というように、乱の勃発から賀茂神主の交代という乱後の後始末までの生々しい記録がある。また、文永九年(一二七二)二月一五日条には二月騒動に関して六波羅と鎌倉の記事を記述する。
『賀茂神主経久記』六帖は「座田書屋」の朱方印が捺されていることなどから、いずれも座田家旧蔵本であることが知られる。残存する日記・記録類が少ない鎌倉時代後期にあって、当時の社会、経済、信仰などの様子を知るうえにきわめて貴重な原本である。