加賀前田家2代当主・前田利長(1562~1614)が越中の鍛冶屋に役儀(つとめ)を果たすように命じたもの。
宛先は越中射水郡守山町(高岡市)の二兵衛と同孫兵衛、及び富山町本久である。末尾に「惣鍛冶中」とあるので、彼ら3名が越中鍛冶のリーダー格であったことがわかる。
「京田舎のやく儀」とは、豊臣政権、及び前田家が賦課するつとめのことと考えられる。
当時利長は2ヶ月前に、守山城から富山城へ移転したばかりであり、当時の前田家の越中支配の一端がうかがえるものである。
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【釈文】
已上
国中かちの
事、誰々知行
代官之内ニ有之
ものたりといふ
とも、壱人も不
相残、京田舎の
やく儀少も
けたいなく可
仕、もしとかくの
儀申者有之ハ
急度可申上、
かたく曲言に
可申付候者也
慶長弐
十二月十六日 利長(花押)
守山町
二兵衛
同
孫兵衛
冨山町
本 久
惣鍛冶中