慶長14年(1609)3月18日、加賀前田家二代当主・前田利長が隠居していた富山城が焼失した。翌月以降利長は越中射水郡関野(のち高岡と命名)に城と城下町の造成を開始する。その一環として利長が側近へ、砺波郡西部金屋村(現・高岡市戸出西部金屋)の鋳物師に高岡へ来て仕事をするようになどと指示している文書。
その大意は「西部金屋の鋳物師から献上された三つの燗鍋は頂戴した。高岡へ引越して仕事などをするように伝えなさい。高岡での屋敷のことは町割奉行へ伝えて鋳物師たちの言う所へ与えなさい。越中年貢代官の山田与兵衛の屋敷のことも奉行へ言いなさい」と側近へ命じている。
利長は鋳物師たちへ高岡の千保川左岸へ5,000坪の土地(拝領地)を与え、様々な特権を与えた。高岡金屋町の鋳物産業の発祥を示す貴重な史料である。
また、新城下町の町割りの一環として金屋町を定めたのは、武士たちへの屋敷地割りと同時であったことが分かる。
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【釈文】
(端裏ウハ書)
「 中 少(駒井守勝)
(墨封) ひ(前田利長)
□□□ 」
一、にしぶのかなやのいもし
かんなへ三つあけ候
高おかへこし候て、し
ごとなといたし候へと
申へく候、やしきの
事もぶぎやう申つかい
可申候
一、山田与兵へやしきの事
ぶぎやうへ申候へと可申候
かしく
五月丗日