中宮寺跡 ちゅうぐうじあと

史跡 社寺跡又は旧境内

  • 奈良県
  • 生駒郡斑鳩町
  • 指定年月日:19900519
    管理団体名:
  • 史跡名勝天然記念物

天寿国曼陀羅〓帳(*1)や菩薩半伽像を蔵する寺として著名な中宮寺は、現在、法隆寺東院伽藍の東北に隣接した寺地を占めるが、この地へは16世紀前半の移転と伝え、創建当初の寺跡が東方500メートルの水田中に残る。
 土壇を中心に方形の地割を持つ旧寺地には、旧殿、赤門前、西ノ門等の字名が残り、周囲には江戸時代まで崩壊途上の築地が遺存したようである。その伽藍については、昭和9年に福山敏男が「聖徳太子絵伝〓(*2)風」(延久元年 秦致真筆)や「諸寺雑記」の記述をもとに、桁行5間、粱行4間の重層入母屋造の金堂と、初層に板葺の裳階をつけた三重塔が南北に並ぶ四天王寺式伽藍配置を想定した。その後、本格的な調査がなされぬまま耕作や礎石の搬出などの改変を受け、寺跡の荒廃が進んだが、昭和38年に石田茂作による残存土壇の発掘調査が行われ、金堂と塔の構造の一部が初めて明らかになった。昭和47年から62年にかけては5次にわたる確認調査が実施され、伽藍の概要と寺域などが解明されている。
 金堂跡の調査は部分的な確認調査であったが、2度の改作の跡が認められている。創建時は凝灰岩切石による壇上積基壇と推定され、これを平安時代初期に縮小して瓦積基壇とし、さらに鎌倉時代に花崗岩割石による乱石積基壇に修造するといった変遷を辿っている。鎌倉時代の基壇規模は、東西17・3メートル、南北14・1メートルで、創建時の基壇もこれとほぼ同規模と推定される。基壇上の礎石は創建当初の位置を保っており、現存礎石1箇と礎石抜取穴から、桁行5間、粱行4間(各柱間2・6メートル等間)の建物が復原できる。
 塔基壇は上面の削平が著しく、側柱礎石を抜き取った溝の一部と、花崗岩製の地下心礎を検出したにとどまる。基壇規模は、一辺約13メートルで、塔の平面形式は不明であるが、一辺6・8メートル前後と推定される、地下2・5メートルに遺存する心礎の上面には、心柱の根元を固定した根巻粘土が遺存し、その内側から金環、金糸片、金延板小塊、琥珀棗玉、ガラス捩玉、丸玉、水晶角柱などの埋納物が発見されている。これらは、心礎に舎利孔などの細工がみられないことから、心柱の根元に穿った小孔内に納められていたものと考えられる。塔と金堂の基壇は5・2メートルと近接して南北に並び、往時には軒を接するような状況であったと思われる。現在のところ、講堂や中門、回廊などの存在は明確になっていない。
 寺跡の区画施設としては、北面と西面の築地を確認している。築地は基底幅は2・1メートルで、築地外側には幅2・5メートル、深さ0・7メートルの外濠がめぐる。また内側にも同規模の内濠が存在するが、これは鎌倉時代に開削されたものである。寺域は西面築地と伽藍中軸線の距離から東西128メートル、南北165メートルと推定でき、東西幅は高麗尺1町に相当する。外郭施設の調査では、北門や南門の一部、西面築地に平行する南北古道を検出している。またこの他に、塔跡の西南方で掘立柱東西塀を、塔跡の東側で掘立柱建物を検出しているが、その時期や性格は明らかでない。
 出土瓦は飛鳥時代から室町時代におよび、伽藍の消長と軌を1つにする。創建時の単弁蓮華文軒丸瓦は、平群の平隆寺出土品と同笵関係にあり、角端点珠の百済系と有稜弁間点珠の高句麗系軒丸瓦からなる。ともに今池瓦窯で生産されたことが判明しており、7世紀前半代に位置付けられる。また、法隆寺若草伽藍出土品と同笵の忍冬弁六弁蓮華文軒丸瓦や、斑鳩宮跡に比定される法隆寺東院地下遺構出土品と同笵の均整忍冬唐草文軒平瓦の出土もあり、法隆寺との密接な関係を示唆している。
 中宮寺は別名中宮尼寺、鵤尼寺とも呼ばれ、聖徳太子創建7か寺の1つに挙げられている。太子が御母穴穂部間人皇后の宮を寺にしたと伝えるが、創建年代については諸説があり定かではない。いずれにせよ法隆寺若草伽藍とほぼ同時期に建立された斑鳩地方最古の寺院であることは確かであり、上宮王家との深い由縁を物語る寺院跡として高い価値を有している。よってここに史跡に指定し、その保存を図ろうとするものである。

中宮寺跡

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