丹後平古墳群は,7世紀復業から8世紀前葉にかけて形成された総数100基前後と推測される古墳群である。古墳群の所在する八戸市は,太平洋に面する青森県東部でも,岩手県との県爵に近い南端部に位置する。丹後平古墳群は,馬淵川の南岸にあるなだらかな丘陵中に立地する。地域振興整備公団による「八戸新都市開発(八戸ニュータウン)」区域内で新たに発見され,昭和62・63年度の発振調査により重要な成果がえら
れたため,事業計画を変更し,主要な中心部分約7,000Ⅰぜについて保存が図られた。
昭和62・63年度に全面調査された29基についての調査成果に与ると,古墳の概要は次のとおりである。古墳はいずれも直径4〜9mほどの円墳である。埋葬施設はすべて木棺を直葬したものであるが,棺をおさめる土坑の手前に,横穴式石室の羨道部に由来すると思われる通路状の張り出しをもつものが多い。木棺を土坑にそのままおさめるもののほか,棺床に礫を敷くもの4基、木炭を敷くもの5基がある。墳丘や周溝に供献された土師器・須恵器のほか,132個の勾玉など約用18,00個の玉類や,鉄製・錫製の釧などの装身具,環頭大刀の把頭,方頭大刀や蕨手刀・馬具などが,主として埋葬施設から出土している.墳丘規模の大きい15号墳から出土した金銅製の獅噛式三累環頭大刀の把頭は,獅噛環頭と三累環頭とを組み合わせた類例のないもので,6世紀前半から中頃の朝鮭半島の製品と考えられている。また、古墳の周辺には29基の土坑墓があり,そのなかに馬を埋葬した土坑1基,関東に類例のある地下式土坑墓1基があって,古墳群の被葬者像を考える上で興味深い。
東北北部においては,岩手県南部の胆沢町の角塚古墳などの例外的な存在はあるが,6世紀までに古墳が波及することは基本的になかった。これは弥生時代以降,稲作が定着した東北南部以南と,一定期間の定着が認められるものの継続部以北との間に生じた,歴史的な歩みの大きな相違が,そのまま引き継がれたものである。しかし,こうした東北北部においても, 7世紀復業以降,8〜9世紀代を中心として群集墳が築かれていく。その背景には,7世紀中頃から,城柵を築いての軍事的介入を含め,東北北部を律令支配下におこうとする古代国家の活動がある。東北北部の群集墳の築造は,こうした活動の活発化にともない,律令制下の人々と接触することのあった在地の勢力が,東北以南の墓制を採用するにいたったものと考えられる。
その意味で,東北北部の群集墳は,日本における異文化間の交流という重要な歴史的課題にかかわる素材となる。本州北端部に位置し,しかも
模な古墳群であることから,きわめて重要である。よって,史跡に指定し保存を図ろうとするものである。