佐賀藩で、請役所執政として幕末の藩政をリードした鍋島茂真(安房)が嘉永7年(1854)に記した手控え。茂真は10代佐賀藩主鍋島直正の庶兄。本資料には、藩主鍋島直正と執政を中心とした藩政運営や諸外国の開国要求を受けての情勢分析などが記されている。
オランダ蒸気船(スンビン号)が長崎に来航した3日後にあたる嘉永7年(1854)閏7月9日の記事には、鍋島茂真をはじめ鍋島市佑・原田小四郎・池田半九郎らが直正の御前で蒸気船に関する協議を行ったことが記されている。「蒸気船御製造、長崎においてこれ有る筈につき、御一手に仰せ付けられ候様、尤も長崎の者共御雇い相成るべし、自然むつかしく候へば、一艘分の御費用はこの御方より差出され候ても」、「中村奇輔申し候は、蒸気車よりは蒸気船は製作易し」、「蘭船、御注文通り参り候ても、皆以て浦賀御廻しと相成る筈候由、この御方へ御取入れは六ヶ敷これ有り」など、佐賀藩が長崎警備のために求めていた蒸気船の製造・入手の話題が続く。そして藩主鍋島直正が蒸気船を欲した理由が、この日の最後の記事からうかがわれる。「公儀も浦賀計りに御備え如何、長崎にも着候へばよろしく候へば差し置かれたく、異船の湊に候へば是非これ有りたき事」。浦賀ばかりではなく外国船の窓口である長崎にこそ、蒸気船が必要と考えたのである。