金閣炎上

絵画 日本画

  • 川端龍子  (1885-1966)
  • カワバタ、リュウシ
  • 昭和25年 / 1950
  • 彩色・紙本・軸・1幅
  • 142.0×239.0
  • 左下に落款、印章
  • 22回青龍展 東京、日本橋三越 1950

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金閣炎上
Kinkaku on fire
1950(昭和25)年
紙本彩色、軸 142×239cm
co1or on paper, hanging scroll
第22回青龍社展
京都鹿苑寺の国宝三層方形造の金閣が同寺徒弟の放火によって全焼したのは、1950年7月2日のことである。2か月ののち、第22回青龍社展に〈金閣炎上〉は出品されている。当時一部の評者にジャーナリスティックだと受け取られたのは、事件そのものの衝撃的な性格にもよるが、主としてその発表の速さのせいであろう。
1888年7月に会津の磐梯山が大噴火した時に、山本芳翠が現地に急行して写生した下絵を合田清が木版に彫って新聞の挿絵にしたという話が伝えられているが、龍子は金閣炎上の現場に駆けつけて写生するわけにいかなかったから、胸中に描きとどめた印象をもとにした表現とならざるを得ない。
時事間題を寓意的に造形化した作品は龍子の芸術の特色の一つであるが、〈金閣炎上〉は墨と朱と金だけの、日本画のいわば正統的な画材で、およそ絵になりにくい「事件」にあえて正攻法で取り組んだ作例である。描きたいものを描く画人の悦楽を知る龍子にとっては苦もないことであったと思われる。
龍子は春秋の青龍社展に1回も欠かすことなく大作を発表したが、秋にはしばしば〈四国遍路〉などの草描をあわせて出品している。〈金閣炎上〉の墨の筆勢には、その草描を思わせるものがあり、これに対して様式化された炎の描写はやや連和感をまぬがれない。
金閣は1955年に再建され10月10日に落慶法要が営まれた。翌年3月、龍子はまた春の青龍社展に〈金閣再現〉を出品している。大衆に共通する興味をテーマに選ぶことは、会場芸術主義の理念上必要であり、画人の想念は自然界のいわゆる絵になりそうなものに限られないというのが龍子の見解であった。

金閣炎上

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