江戸時代に例幣使道栃木宿本陣をつとめた長谷川家に伝来した袋戸書である。天保14年(1843)4月に実施された12代将軍徳川家慶の日光社参に際し、将軍に随従して日光参詣を行った水戸藩主徳川斉昭(1800-1860)が、日光への行き帰りの途上、栃木宿本陣で休憩した際に揮毫したものである。
江戸時代における日光社参では、将軍が江戸から岩槻・古河・宇都宮を経由する日光道中を通行したのに対し、三家は江戸から中山道を鴻巣宿(埼玉県鴻巣市)で分岐し館林方面に北上し、佐野天明宿からは例幣使道に入り、栃木・鹿沼を経て今市から一度会津西街道大桑村(日光市)を迂回して日光に入るという独自のコースを辿った。
徳川斉昭は4月10日未明に江戸小石川の藩邸を出発し、桶川宿本陣、佐野天明宿本陣、鹿沼宿本陣でそれぞれ宿泊した後、13日の夕方に大桑村に到着した。尾張徳川家、紀伊徳川家の到着を待つため2日間をここで過ごし、三家が揃ってから16日に日光に入った。17日は東照宮大祭の日であり、数々の社参の儀礼が執り行われた後に将軍徳川家慶は翌18日に江戸に向けて出立したが、斉昭はその後も日光に留まり、中禅寺方面にて日光の自然を探勝するなどした後に19日に大桑村に宿泊、往路と同様の道筋を経て23日夕方に小石川の江戸藩邸に帰着した。
斉昭に随行した青山延光による袋戸書箱書によれば、斉昭は往路の4月12日に栃木宿の長谷川家において休憩し、一章を題し漢詩を揮毫して同家に下賜したところ、当主は歓喜してそのための箱を新たに作成し、日光からの帰途にその箱を見せられた斉昭が、青山に命じて箱書を書かせたとある。青山延光(1807-1871)は、侍読として斉昭に仕え、のちに彰考館総裁までも務めた水戸藩の碩学であり、天保14年当時は弘道館教授頭取の役職にあった人物である。なお、栃木宿脇本陣をつとめた坂倉家に伝来した「水戸様御昼休御宿割帳」(坂倉重平家文書 №14 栃木市所蔵)によれば、このときの斉昭一行の人数は1500人以上にも及んだことが判明する。
長谷川家においては、本資料の存在自体は伝承されていたが、その所在については長らく不明であった。平成27年4月に現当主の長谷川恵子氏が同家の蔵を整理した際にその所在が確認され、翌平成28年の6月に同家から栃木市に寄贈された。