蘭島及び三田・清水の農山村景観 あらぎじまおよびみた・しみずののうさんそんけいかん

文化的景観

  • 和歌山県
  • 和歌山県有田郡有田川町
  • 選定年月日:20131017
    管理団体名:
  • 重要文化的景観

高野山系に水源をもつ有(あり)田(だ)川(がわ)は、穿(せん)入(にゆう)蛇(だ)行(こう)により独特の地形を形成しながら、和歌山県中北部を西流し、紀伊水道に流入する。その上流部に位置する三田・清水は、有田川が形成した河岸段丘に展開する農村集落である。集落では、有田川の支流である湯(ゆ)川(かわ)川(がわ)から導水した水を用いて、平坦面における稲作を中心とした生業が営まれている。中でも、大きく屈曲する有田川によって形成された蘭島では、整った対称を成す扇形の段丘地形において棚田耕作が行われており、審美的な価値も高い。また、耕地が限られる当地では、畦畔や集落の後背斜面地等も山畑に利用され、シュロ・チャノキ・サンショウなど特徴的な植生が見られる。特に、ヒメコウゾから生産される和紙は保(やす)田(だ)紙(がみ)として著名で、かつては和傘の材料として、内海(うつみ)(海南市)などの都市部へ移出された。
高野参詣道の途上に位置する当地は、長久3年(1042)の高野山文書に記載されるなど、早くから集落が営まれていたと考えられる。中世には、本家円満院(三井寺)、領家寂楽寺(白川喜多院)、地頭湯浅党が統治する荘園(阿弖河荘(あてがわのしよう))であったことが、建治元年(1275)に作成された国宝『阿弖河荘上村(かみのむら)百(ひやく)姓(しよう)等(ら)片(かた)仮(か)名(な)書(がき)申(もうし)状(じよう)』等によって知られている。現在に至る土地利用の在り方の基盤が形成されたのは、近世期である。17世紀から18世紀初頭にかけての当地における耕地開発・集落整備を遂行したのが、山(やま)保(やす)田(だ)組の初代大庄屋であった笠松左太夫(かさまつさたゆう)(1596~1673)であった。笠松は、明暦元年(1655)に湯川川に井堰を設けて灌漑水路「上湯(うわゆ)」を開削し、蘭島における水田耕作を可能にしたほか、保田紙の生産を専業とする小(こ)峠(とうげ)集落等を開いた。
当地では、水田への用水路は「湯(ゆ)」と呼ばれる。それぞれの湯では「田(た)人(ど)」と呼ばれる水利組合が組織され、田(た)人(ど)親(おや)の下で水路の維持管理が行われた。また、「湯(ゆ)山(やま)」と呼ばれる共有林を保有し、木材を切り出して柴堰の補修を行ったり、木材を売却して田人の運営費に当てたりした。現在も、水利組合長である「部(ぶ)頭(とう)」のもと、「水(みず)守(もり)」を定め、水路の補修・清掃・管理を共同で行っている。また、田への水入れや水落としの日取りも田人ごとに定めるなど、伝統的な水利慣行が継承されている。
当地における集落形態は、水との関係によって規定される。谷水が豊富で利水しやすい三田集落では家屋が散在するのに対し、湧水を水源とする西原(にしのはら)集落では家屋が密集する。それぞれの民家は、もともと降雨が多い当地に適合した急傾斜の茅葺き屋根を有しており、狭小な敷地に適応した分棟形式の建物配置となっている。山を背にした主屋の両側に、付属屋として納屋・土蔵・紙漉小屋等が配される。主屋・付属屋によって囲まれた空間は、農作業場のほか、コウゾの堆積や紙干し場として利用されるなど、生業に密接した居住空間が構成されている。さらに、「亥(い)の子(こ)」などの農耕儀礼をはじめ、イタドリの枯柴を道の辻に積み上げて焚くことによって邪気・邪霊を追い払い、無病息災を願う「鬼追いドンド」の節分行事など、年中行事が現在も数多く継承されている。
このように、三田・清水では、蘭島をはじめとする有田川の河岸段丘地形において稲作が行われるほか、保田紙の生産など特徴的な生業が営まれてきた。こうした生業の在り方は居住地の空間構造に反映されており、独特の文化的景観を形成していることから、この地域における生活・生業を理解する上で欠くことができない景観地として、重要文化的景観に選定し、保存・活用を図るものである。

蘭島及び三田・清水の農山村景観

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