木造阿弥陀三尊像(中尊阿弥陀如来立像及び脇侍観音菩薩・勢至菩薩立像)
もくぞうあみださんぞんぞう(ちゅうそんあみだにょらいりゅうぞうおよびわきじかんのんぼさつ・せいしぼさつりゅうぞう)
彫刻 木像
- 山形県
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平安時代末期から鎌倉時代初期、江戸時代後期
- 【中尊 阿弥陀如来】
品質・構造: 寄木造。玉眼嵌入(か)。肉身漆箔。衣は彩色に截金。頭体は耳輪の後方にかかる線で前後二材矧付。内刳を施す。玉眼嵌入か(現状、塗膜で埋める)。左体側部は肩上を通り、袖を含み裙に至る線で別材矧付。右体側部は肩上を通り、上膊部を含んで同じく裾に至る線で別材矧付。左手先別材矧付。右前膊部別材矧付。右手先別材矧付。右袖外側垂下部別材矧付。右袖内側別材矧付か。左足踵部別材差し込み。左足前側は別材矧付。右足も同様に踵部別材差し込み。前側も別材矧付。
形状: 如来形立像。肉髻、螺髪を刻む。螺髪は正面で地髪部7段、肉髻部6段、髪際で32粒。肉髻珠(水晶嵌入-後補)。白毫相(水晶嵌入-後補)。髪際一文字。目は現状彫眼に見えるが、塗膜で覆われていて不明(元は玉眼か)。鼻孔を穿つ。三道彫出。耳朶貫通。覆肩衣、枘衣をつける。左手やや屈臂して体側に垂下し、第一・二指を捻じ、他は伸ばす。右手屈臂して前に立て、第一・二指を念じ、他指を伸ばす(来迎印を結ぶ)。裙をつける。裙は正面で右を前にして合わせる。右の合わせ目をやや翻す。左足をやや前にだす。
【脇侍 観音菩薩】
品質・構造: 寄木造。肉身漆箔。衣は彩色に截金。頭体を前後二材矧付。両腕別材矧付。両足先別材矧付。髻別材矧付。
形状: 菩薩形立像。宝冠。髻は三房作る。毛筋彫り。白毫相。彫眼。耳孔を穿つ。三道を彫出する。条帛、天衣、胸飾をつける。両腕をやや屈臂して前方に出す。両手は掌を上に向け、五指を伸ばす(蓮華(亡失)を奉じする)。裙、腰布をつける。裙の正面に舌状の折り返しをつくる。裙は正面で左を前にして合わせる。右足を前に出し膝をやや曲げて蓮華座に立つ。
【脇侍 勢至菩薩】
品質・構造: 寄木造。肉身漆箔。衣は彩色に截金。頭体を前後二材矧付。両前臂各別材矧付。両前膊別材一材矧付。両足先別材矧付。髻別材矧付。後頭部真横に矧付有り(別材を矧付けるか)。
形状: 菩薩形立像。宝冠。髻は三房作る。毛筋彫り。白毫相。彫眼。耳孔を穿つ。三道を彫出する。条帛、天衣、胸飾をつける。両腕を屈臂して両手五指を伸ばして胸前で合掌する。裙をつけ、正面で左上に合わせる。裙は折り返しをつくる。腰布をつける。左足を前に出し、膝をやや曲げて蓮華座に立つ。
- 【中尊 阿弥陀如来】
法量(㎝)
本体 像高 59.6 髪際高 55.5 頂‐顎 11.8 面長 7.2
耳張 9.1 面幅 6.6 面奥 10.0 胸厚(左) 7.6
腹厚(左) 9.8 肘張 19.7 袖張 16.8
裾張 12.0 足先開(外) 7.4 足先開(内) 3.0
台座 最大高 29.3 最大幅(下框) 37.8 最大奥 27.6
光背 最大高 83.0 最大幅 38.0 枘高 2.5 枘幅 2.8
【脇侍 観音菩薩】
法量(㎝)
本体 像高 31.1 髪際高 27.5 頂‐顎 7.6 面長 3.8
耳張 4.3 面幅 3.1 面奥 4.9 胸厚 4.3
腹厚(右、正面‐背面裙の折り返し) 6.8 肘張 10.4
最大幅(裙裾の両膝の張) 9.7 枘高(右) 2.6
枘奥(右) 2.7 枘厚(右) 0.5
台座 蓮肉高 4.5 蓮肉左右径 9.0 蓮肉前後径 8.5
光背 最大高 20.9 最大幅 14.6 枘高 1.5 枘幅 1.0
【脇侍 勢至菩薩】
法量(㎝)
本体 像高 31.2 髪際高 28.0 頂‐顎 7.6 面長 3.6
耳張 4.3 面幅 3.2 面奥 4.7 胸厚 4.1
腹厚(右、正面‐背面裙の折り返し) 7.3 肘張 9.6
裾張 9.3 枘高(右) 2.5 枘奥(右) 2.8 枘厚(右) 0.5
台座 蓮肉高 4.8 蓮肉左右径 8.3 蓮肉前後径 8.5
光背 最大高 22.1 最大幅 14.7 枘高 1.7 枘幅 1.0
- 3軀
- 山形県新庄市下金沢町8-5
- 新庄市指定
指定年月日:20190221
- 宗教法人 接引寺
- 有形文化財(美術工芸品)
本仏像は、現在埼玉県在住の渋谷家が先祖代々奉祀してきたものだが、この度、同家菩提寺の新庄市接引寺に寄進されたものである。
渋谷家は仙北角館在城時代から戸沢氏(後の新庄藩主)の御用商人として仕えてきた豪商だった。戸沢氏の新庄転封の際は同氏に従って新庄に来て城下一番の繁華街南本町に店を構え、京・大坂の上方市場と結んで手広く取引を行う城下随一の豪商として栄えた家柄であった。同家は歴代信仰心が深く、領内の寺院に多くの仏具等を寄進している。特に阿弥陀仏についての信仰心が篤く同家には本阿弥陀の他に、阿弥陀来迎図なども掲げられていた。同家の伝えによれば、本阿弥陀を同家に祀ったのは同家2代目(天和2年(1682)死亡)で、初め京都から平安時代作とされる中尊の阿弥陀仏立像を購入、次に江戸時代作とされる脇仏観音・勢至の両菩薩像を江戸から取り寄せて、現在のように三体組合わせて、朝夕香華を手向けて代々礼拝されてこられた由である。