江戸時代初期より幕領であった石見銀山で産出した銀を運んだ,石見(いわみ)国(のくに)大森から備後(びんご)国(のくに)尾道までの道である。尾道からは船で大坂まで運んだ。関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は,石見に大久保長安(ながやす)を派遣し,銀山を毛利氏から接収した。石見銀山奉行となった長安は,銀の輸送路に尾道までの陸路を選択し,慶長年間(1610年頃)から灰吹(はいふき)銀(ぎん)の輸送が始まった。輸送は,宿駅伝馬制及び助郷制によって行われ,延宝年間(1673~ 1680)以降は年1回となった。最後の銀輸送である慶応元年(1865)は500人を超える隊列であった。
今回の指定範囲は美郷町のやなしお道など約6kmで,尾根付近を通り,切通,削平,土橋構築などの工法を駆使した比較的平坦な道である。道幅は6尺から9尺で,途中には茶屋跡,一里塚がある。これに対し,東端のやなしお坂は高低差約190mの急坂を16回屈曲しながら下る坂で,人足は増賃で,人数を増強して対応した。
江戸幕府の銀の輸送や交通制度を考える上で欠くことができない街道である。