加賀八家奥村本家の伊予守(1)が、ある僧侶に宛てた書状(後欠であり宛所は不明)。「柱杖」(2)の所望、及び御作の詩歌の揮毫に対して丁寧にお礼を述べている。冒頭に「御答」とあり、返書であるとわかる。
意訳すると、「先日の別宅訪問の御礼として早々に御使僧をもって丁寧な仰せをいただき、ありがたいことです。もっとも初めてのお越しであったのに、いずれも風情があり、とても快く、緩々としたお話は大変ありがたかったです。殊に私の家の下男に申し付けられました、柱杖を大変気に入られてご所望されたことは、本望の至りでございました。その上、ご自作の詩歌をご揮毫していただき、お気持ち大変ありがたいことでございます。かつ、この詩歌を清書され、既に柱杖のご挨拶をも書き加えられて、さらに豊財院(3)へお渡しになったとのことで、大変ご念を入れていただきました。このことのお答とお礼をこのように申し上げます。委細は日辰へ言い含めました。このように再びお答などは最早ご容赦くださいますよう、よろしくお願い申し上げます。」となろうか。
本史料は現高岡市東海老坂の旧家の上坂家文書と思われる。木倉豊信「上坂家(こうさかけ)文書目録」〔『越中史壇』28(越中史壇会、1964.3)〕、及び同「上坂家文書(続)」〔『富山史壇』33(越中史壇会、1966.3)〕に紹介されている35通には見当たらないが、本史料を含む次の6通が連続で巻子装され、その3通目である。①年未詳4月4日付前田利光書状(後欠)、②天正7年(1579)11月16日付神保氏張知行安堵状(海老坂藤兵衛宛)、③年未詳7月28日付奥村伊予守書状(宛所不明)、④年未詳6月20日付横山英盛書状(海老坂村五兵衛宛)、⑤年未詳2月11日付横山貴林書状(海老坂村五兵衛宛)、⑥年未詳5月10日付横山貴林書状(海老坂村五兵衛宛)。この内、木倉の「上坂家文書目録」に①と②が掲載され、④~⑥は上坂家のあった海老坂村の知行領主である横山家からの書状である。つまり、本史料以外は上坂家文書であり、一緒に伝来した可能性が高い。
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【釈文】
御答
先日別宅江御尋来之為御礼、
早々以御使僧御慇懃之仰
辱御事候、尤以始而御来儀之処、
何之風情も御快御進、緩々御語
珍重ニ存候、殊手前ニて家僕江申付候、
柱杖応御気御所望之段、本望之
至ニ御座候、其上御作之詩歌
被染御筆御心添之義不浅存候、
且右詩歌御調被置、既柱杖之
御挨拶をも被書加、重而豊財院江
被渡下、段々被入御念儀存候、右
御答御礼旁、如此御座候、委細
日辰江申含候、如此御再答なと
最早御用捨可被下候、以上、
七月廿八日 奥村伊予守
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【注】
1.加賀八家奥村本家(17,000石)で伊予守を名乗るのは、4代栄清(1614~71)、5代時成(1644~93)、6代有輝(1679~1731)。奥村家の菩提寺は現金沢市東兼六町18-8の永福寺(曹洞宗)。
2.柱杖(ちゅうじょう)…禅宗の高僧の持物。晋山式(寺の住職が決まって、正式に就任する時の儀式)などに使用する。長さ2m強ほどある。
3.豊財院(ぶざいいん)(曹洞宗)は現石川県羽咋市白瀬町。山号は白石山。正和元年(1312)、瑩山紹謹が草庵を結び、能登初の禅風をもたらしたのが始まり。伝説では瑩山禅師が当庵より白狐に導かれ、永光寺を開創したといわれている。兵乱などにより荒廃した時期もあったが、江戸時代に大般若経を血染めで書き写した11世月澗和尚の時に再興された。(HP「加賀・能登の禅寺を訪ねて」曹洞宗石川県宗務所)