本別邸は、大隈重信(1838-1922)が明治30年(1897)5月に敷地・建物を購入したことに始まる。敷地は、東隣に陸奥宗光別邸、西隣に大隈家が代々家臣として仕えた旧佐賀藩主鍋島家の別邸があり、その西に伊藤博文の滄浪閣が位置する。当時大隈は外務大臣であり、総理大臣として日本初の政党内閣を立ち上げる前年に当たる。
大隈が購入した土地は、土地台帳および『明治二拾九年四月八日起 建物願届類』(大磯町所蔵)によれば、前所有者は実業家・吉川泰次郎の長子・慎一郎であり、土地は沖守固(元神奈川県令、当時和歌山県知事)の旧所有地463坪を含む計1,957坪、建物として木造草葺平家2棟(122坪・24.5坪)と木造瓦葺土蔵1棟が存在した。
明治 30 年代初頭の家屋台帳(大磯町所蔵)によると、一号〜六号の建物があり、このうち一号は「居宅及土蔵」「草瓦葺」で、土蔵を除けば規模は137.8坪であって、明治30年購入時点の主屋とほぼ一致する。残る二〜六号は、付属の「家屋位置建物図」によれば別棟の居宅2棟と物置・浴室に当たり、主屋は購入当時の規模をほぼ保ったとみられる。しかし、明治30〜34年頃の作成と判断される「相州大磯町伯爵大隈重信別墅ノ図」(東京都立中央図書館木子文庫所蔵)によると、「家屋位置建物図」に比べ、北東側に浴室棟の増築が確認できる。大隈家旧蔵の「大磯地所買入其他諸費調査」(早稲田大学大学史資料センター所蔵)によれば、明治30年に増築用の大工手間等が計上されていて、増築を裏付けるほか、松の苗木を大量に購入しており、防風等を目的として松林の育成を行ったことが窺える。