足柄平野の北西端に東西に伸びる独立丘陵西側の城山一帯が河村城跡である。標高225mの丘陵上の平坦部に築城され、西方から南方を酒匂川、北方を旧皆瀬川(現在のJR山北駅のある盆地)に囲まれた要害の地に立地し、およそ東西650m、南北350mの範囲に及ぶ。
築城者とされる河村氏は、平安時代末期に藤原秀郷(ふじわら の ひでさと)の一族とされる波多野遠義(はたの とおよし)の子、秀高(ひでたか)が現在の山北の地を領地とし、河村を名乗ったことに始まる。
鎌倉時代末期、新田氏の鎌倉攻めでは、河村氏は新田氏側として活躍する。南北朝時代には、北朝側の足利尊氏軍と戦火を交え、正平(しょうへい)7~8(1352~53)年に南原(みなみはら)の戦いで敗れた。
その後は関東管領上杉氏、大森氏の持城となった時期を経て、最終的には後北条氏の武田氏に備えた支城として重視されたが、天正18(1590)年に豊臣秀吉の小田原攻めの際に落城し、廃城となったと考えられている。このように、河村氏の興隆から後北条時代まで約400年の城の変遷が明瞭で、県内の中世山城を代表する貴重な城跡である。現在、山北町による整備事業が行われている。