年未詳2月2日付徳川秀忠書状(前田利長宛) ねんみしょうにがつふつかづけ とくがわひでただしょじょう まえだとしながあて

歴史資料/書跡・典籍/古文書 文書・書籍 / 江戸

  • 徳川秀忠  (1579~1632)
  • とくがわひでただ
  • 富山県高岡市
  • 江戸時代初期 / 1611/12年カ
  • 紙本(折紙)墨書
  • 縦46.5㎝×横65.2㎝
  • 1
  • 富山県高岡市古城1-5
  • 1-01-274
  • 高岡市(高岡市立博物館保管)

徳川幕府2代将軍徳川秀忠(※1)から、「越中中納言」(※2)、即ち加賀前田家2代当主で高岡開町の祖・前田利長(※3)に宛てた書状である。
内容を意訳すると「その後、ご病気は快方に向かわれましたでしょうか。療養に努めてください。さて、鷹狩りで得た雁(鴈)20羽を贈ります。なお、お返事をお待ちしております。」というものである。高岡城にて病臥する利長に対する将軍秀忠の見舞状で、当時の両者の関係性を示す。
利長の病気関係史料は多く、本史料を含め管見では63点(※4)も確認できる。利長は高岡入城の翌年、慶長15年(1610)3月に腫物を発症して倒れて以降、同19年5月の死去まで数回大御所家康、将軍秀忠らからの見舞状と利長の返礼状の文通をしている。
本史料は『加賀藩史料』第2編(p80)に掲載〔慶長16年(1611)に比定〕されており、内容は既知のものである。しかし、出典は後世の編纂物の孫引き(※5)であり、原本からの翻刻、または筆写ミスが4字みられる(※6)。よって、その原本である本史料は新発見といえる。
なお、引用がより古い『瑞龍公御年表』陽(有沢貞庸(さだつね)、1837年以前)では、本史料を慶長17年(1612)と比定している。また、同書では本史料は慶長17年2月15日に高岡に到来したとあり、即日返礼状を認めている(秀忠家臣の本多正信・大久保忠隣(ただちか)宛/『加賀藩史料』第2編(p81。出典は『加賀古文書』)。
本史料は将軍の書状「御内書(ごないしょ)/御教書(みぎょうしょ)」である。料紙は大きく厚手の楮紙「大(おお)高檀紙(たかだんし)」で、権力者の尊大さを最も示すものである。状態は若干のシミ、虫損がみられるが良好といえる。
本史料は豊臣・徳川両権力の併存期(公儀二重体制)という政治的緊張が高まっていく中で、利長と秀忠との関係性を示す貴重な文書であるといえよう。

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【釈文】

爾来所労
弥験気之事候哉、
可有療養義
専要候、仍鷹之
雁弐十相送之候、
猶期来信候、
謹言、
二月二日 秀忠(花押)

越中
中納言殿

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【読みくだし】

爾来(じらい)所労(しょろう)
いよいよ験気(げんき)の事に候哉(そうろうや)。
療養あるべき儀、
専要に候。よって鷹の
雁二十相送り候。
なお来信を期し候。
謹言。
二月二日 秀忠(花押)

越中
中納言殿

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【注】
※1 徳川 秀忠(1579~1632)
 江戸幕府第二代将軍。家康の三男。幼名長松、のち竹千代。慶長10年(1605)将軍となる。元和9年(1623)まで将軍職にあって家康の遺命を守り、諸法度の制定、貿易地の制限など幕府組織の整備に努めた。                   (『精選版 日本国語大辞典』)

※2 越中中納言
利長は慶長3年(1598)8月、権中納言に叙任、翌年12月辞しているが、その後も「越中中納言」と呼ばれていた。しかし、利長は書状では秀吉から受領した「羽柴肥前守」や、その略称「はひ」「ひ」などと署名している。

※3 前田 利長(1562~1614)
 織豊期~江戸初期の武将・大名。加賀国金沢藩主。藩祖前田利家の嫡男。はじめ父とともに織田信長に仕え,のち豊臣秀吉に臣従,加賀国松任,越中国守山,同国富山などを次々に居城とした。1598年(慶長3)利家の家督を継ぎ金沢城に移り,翌年利家の死去で,いわゆる五大老の1人となった。一時徳川家康と対立関係にあったが,母を人質とすることで収拾。翌年の関ケ原の戦では徳川方につき,戦後加賀・能登・越中3国を領した。
(『山川 日本史小辞典 改訂新版』)

※4 利長の病気関係史料
 池田仁子『近世金沢の医療と医家』(岩田書院、2015)によると、本史料を含む関係史料は57点(表「利長の高岡での病と治療」に30点、聖安寺文書17点、村井文書1点、神尾文書8点、沢存1点)ある(医師・薬師は幕医の盛方院吉田浄慶、腫物の名医・曽谷慶祐、高岡の聖安寺住職、加賀藩医の内山覚仲・藤田道閑など)。また薬師「一くわん」の糸魚川歴史民俗資料館蔵利長書状1点〔鈴木景二「前田利長書状二通」『富山史壇』189号(2019.7)〕。それに当館蔵の上坂家文書5点(現高岡市二上の薬師三右衛門関係)を加えた計63点が管見の限り確認される。

※5 本史料が掲載されている『加賀藩史料』第2編〔p80、1980年復刻版(1930年初版)〕の出典は『加藩国初遺文』巻8(森田杮園、1888年、金沢市立玉川図書館近世史料館蔵)であるが、その出典は『瑞龍公御年表』(有沢貞庸、1837年以前、金沢市立玉川図書館近世史料館蔵)である(慶長17年に比定)。つまり、『加賀藩史料』は孫引きをしていることになる(下記参照)。しかも、『瑞龍公御年表』は出典、または所蔵を示していないので、本史料の原本ではなく、更に別の編纂物を引用している可能性もある。

※6 上記のように本史料は孫引きで『加賀藩史料』第2編に掲載されており、次のように原本・出典からの翻刻、または筆写ミスが若干みられる(原本の釈文は上記参照)。
(1)『瑞龍公御年表』陽(有沢貞庸、1837年以前)の18字目…「専一」→原本「専要」。
(2)『加藩国初遺文』巻8(森田杮園、1888年)…上記に加え、5字目…「致験気」→原本「弥験気」。16字目「儀」→原本「義」。
(3)『加賀藩史料』第2編(前田育徳会、1930年初版)…上記に加え、24字目…「二十」→原本「弐十」。
 (1)では1ヶ所であったが、(2)では3ヶ所、(3)ではそれらに加え1ヶ所(計4ヶ所)の翻刻・筆写ミスがある。幸い本史料の該当箇所は内容解釈まで誤らせるものではなかったが、原則として少しでも正確な歴史解釈・叙述をするためには、原本に当たって史料情報を正しく読み取ることが必要、重要であることを再確認させてくれる。

年未詳2月2日付徳川秀忠書状(前田利長宛) ねんみしょうにがつふつかづけ とくがわひでただしょじょう まえだとしながあて
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