年未詳5月1日付徳川秀忠書状(前田利長宛) ねんみしょうごがつついたちづけとくがわひでただしょじょう(まえだとしながあて)

歴史資料/書跡・典籍/古文書 文書・書籍 / 江戸

  • 徳川秀忠  (1579~1632)
  • とくがわひでただ
  • 富山県高岡市
  • 年未詳(1609年カ)5月1日付
  • 紙本(大高檀紙)・折紙・墨書
  • 縦45.1cm×横61.5cm
  • 1通
  • 富山県高岡市古城1-5
  • 資料番号 1-01-249
  • 高岡市蔵(高岡市立博物館保管)

徳川幕府2代将軍徳川秀忠(※1)から、「越中中納言」(※2)、即ち加賀前田家2代当主で高岡開町の祖・前田利長(1562~1614)(※3)に宛てた書状である。
内容を意訳すると「あなた(利長)の居城普請(高岡築城)については当然許可されるべきですが、芳春院(利長生母)へ伝えて、あなたには直接伝えていなかったため普請を開始していなかったことを知りました。早々に普請の開始を命じられて結構です」というもの。本史料は『加賀藩史料』、『大日本史料』等には掲載がなく、新発見史料とみられる。また、高岡築城の経緯が判明し、現在写しも含め約50数点ある豊富な関係史料(※4)に加えることができる。
利長は慶長3年(1598)4月に父利家の跡を襲って家督を継ぎ、同10年6月に隠居して富山城へと移った。しかし同14年(1609)3月18日の火災で富山城が焼失し魚津城に退避。そこから高岡築城、城下町造成を指示し、9月13日未完成であったが入城を果たした。本史料はその内容から見て、この慶長14年の高岡築城時のものと見てよいと思われる。
徳川家康は同年4月6日付で「居城普請の件については、どこでもあなた次第であるので、お気遣いはしないでください。江戸の将軍(秀忠)にも必ずその様にさせます」と伝えている(※5)。本史料から利長はこれ以降、秀忠からも築城許可の通達を律義に待っていたことがわかる。しかし、何もしなかった訳ではなく、同月12日付(先述の6日付家康書状到着前)で物資揚陸基地となる木町の町建てを許可し(※6)、16日付(三重臣名)で五箇山での用材伐出人夫手配を申し付け(※7)、22日付で城と重臣屋敷割の絵図提出を命じている(※8)など築城普請の準備を着々と進めていた。そして、5月1日付の本史料が江戸から魚津に届き、諸準備をして同月17日付で地鎮祭を既に行ったことを芳春院に伝えている(※9)。
本史料から秀忠は芳春院には築城許可を伝えていたが、直接自分から利長へ伝えていなかったので、普請がまだ開始されていないことを知って驚き、早々にこの御内書(ごないしょ)(将軍の私文書)を認めており、秀忠の利長に対する他意の無いことや申し訳無さなども感じさせる。
また、徳川幕府は慶長20年(1615)に豊臣家を滅ぼすと、諸国の端城(はじろ)(支城)の城割(しろわり)(破城(はじょう))を命じ、全面的な大名領国内の城郭統制に乗り出した。これ以前からも、個別的に諸国の城郭統制は行われており、例えば後に居城広島城の無断修築で改易となった福島正則は、ちょうど慶長14年頃に端城の亀居城の新規築城が問題となって幕府の不興を買っていた(※10)。利長はこの正則の一件もあって、将軍秀忠からの正式な築城許可を待ったものと思われる。
豊臣・徳川両権力の併存期(公儀二重体制)という政治的緊張が高まっていく中での状況を示す好個の史料であり、徳川政権初期の城郭統制を知る上でも貴重な文書であるといえよう。
料紙は大きく厚手の楮紙「大高檀紙(おおたかだんし)」で、権力者の尊大さを最も示すものである。
状態は若干の虫損がみられるが良好といえる。



【釈文】

其許居城
普請之儀可
然之由、芳春院へ
申候故、従此方
不申越付而、
普請不被相
企之由候、
早々被申付
尤候、謹言、

五月朔日 秀忠(花押)


越中
中納言殿



【読みくだし】

そこもと居城
普請の儀、
しかるべきの由、芳春院へ
申し候ゆえ、こなたより
申し越さざる(に)ついて、
普請あい
企てられざるの由(に)候。
早々申し付けられ
もっとも(に)候。謹言。

五月朔日 秀忠(花押)


越中
中納言殿


------------------------------------------------------------------------------------------------------------


【注】
※1 徳川 秀忠(1579~1632)
 江戸幕府第二代将軍。家康の三男。幼名長松、のち竹千代。慶長10年(1605)将軍となる。元和9年(1623)まで将軍職にあって家康の遺命を守り、諸法度の制定、貿易地の制限など幕府組織の整備に努めた。                   (『精選版 日本国語大辞典』)
 ちなみに、慶長14年(1609)3月18日の富山大火にあった利長に対し、4月4日付と5日付の火事見舞状を出している(利長の礼状は10日付)。

※2 越中中納言
利長は慶長3年(1598)8月、権中納言に叙任、翌年12月辞しているが、その後も「越中中納言」と呼ばれていた。しかし、利長は書状では秀吉から受領した「羽柴肥前守」や、その略称「はひ」「ひ」などと署名している。

※3 前田 利長(1562~1614)
 織豊期~江戸初期の武将・大名。加賀国金沢藩主。藩祖前田利家の嫡男。はじめ父とともに織田信長に仕え,のち豊臣秀吉に臣従,加賀国松任,越中国守山,同国富山などを次々に居城とした。1598年(慶長3)利家の家督を継ぎ金沢城に移り,翌年利家の死去で,いわゆる五大老の1人となった。一時徳川家康と対立関係にあったが,母を人質とすることで収拾。翌年の関ケ原の戦では徳川方につき,戦後加賀・能登・越中3国を領した。
(『山川 日本史小辞典 改訂新版』)

※4 仁ヶ竹亮介「城下町高岡の形成・変容(表1「高岡城関連古文書一覧表」)」(『中近世移行期 前田家領国における城下町と権力 -加賀・能登・越中-』2016年、城下町科研・金沢研究集会実行委員会)掲載の52点(うち正文31点)に「〔慶長14年〕10月9日付前田利長消息(鈴木権介宛)」(篠島家文書/萩原大輔「高岡築城に関する前田利長消息(篠島家文書)の紹介と考察」『論集 富山城研究』3、2020年)と本史料を加えた計54点。

※5 慶長14年4月6日付徳川家康書状(前田利長宛)写(『加藩国初遺文』巻八(金沢市立玉川図書館近世史料館蔵。『加賀藩史料』第二編、『大日本史料』第十二編之六所収)

※6 (慶長14年カ)4月12日付前田利長書状(小塚淡路秀正宛)。木町神社蔵(高岡市指定文化財)。

※7 (慶長14年カ)4月16日付奥村伊予守家福・横山山城守長知・篠原出羽守一孝連署状(はんにや(般若)野之内 中条村(川合)又右衛門宛(個人蔵。『富山県史 史料編Ⅲ240号所収)

※8 慶長14年4月22日付前田利長書状(神尾図書之直・稲垣与右衛門宛)写(所蔵者不明。『加賀藩史料』第二編、『大日本史料』第十二編之六所収)。

※9 (慶長14年)5月17日付前田利長書状(神尾図書之直宛)。前田育徳会(尊経閣文庫)。

※10 亀居城(小方城)は現広島県大竹市にあった平山城。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いに敗れた毛利輝元は、減封されて長門国の萩へ去り、入れ替わりに戦功のあった福島正則が安芸国と備後国の2国を得て、広島城に入った。この時期、徳川方と豊臣方の決着はまだついておらず、政情は不安定なものだった。そこで毛利氏に対抗する軍事的見地から、正則は領内に亀居城など6つの支城を築いた。亀居城は5年の歳月をかけて1608年(慶長13)に完成した。山陽道を城内に取り込む亀居城は、この時期の支城としては大規模な造りで、11の郭を有し、城の総面積は 9.92ha にもなるものであった。このため、もともと豊臣恩顧の武将だった正則は、徳川氏側から疑念をかけられ、亀居城は築城からわずか3年で主な建造物は撤去、廃城となった。
(『日本の城がわかる事典』講談社、「コトバンク」2023年11月16日アクセス。
正連山恵「広島城ゆかりの城―亀居城―」『しろうや』64号、(公財)広島市文化財団広島城、2020年6月10日)

年未詳5月1日付徳川秀忠書状(前田利長宛) ねんみしょうごがつついたちづけとくがわひでただしょじょう(まえだとしながあて)

ページトップへ