明治の近代洋画の創成期にあって、東京美術学校の黒田清輝と、関西美術院の鹿子木孟郎は、その生い立ちや画業の足跡において、まさに光と影ほどの際立った対照をみせている。
元貴族院議員で子爵黒田清綱の養子として育った黒田は、17歳でフランスに留学。帰国後、東京美術学校西洋画科主任に任命され名実ともに洋画壇の領袖として君臨するが、鹿子木は故郷の岡山で図画教師や三重県津市、埼玉県浦和市で教員として働いた。
26歳のとき鹿子木は米国経由でやっとパリへ。1901年から三度(通算7年間)のパリ留学で、アカデミー・ジュリアンのローランス教室に学んだ。ローランスはフランス最後の歴史画家といわれた保守的な教師。ジュリアン塾の塾誌の表紙を飾る腕前であった優等生の鹿子木を大変かわいがったようである。
この婦人像は、滞仏中に描かれたものだが、端正な筆致と手堅い明暗法で処理された画面は、フランスの肖像画の伝統を正統的に継承した鹿子木の本領を既に予告している。(荒屋鋪透)