巖華園
がんかえん
概要
巖華園は、足利市の市街地北部に所在し、足利学校から古刹行道山浄因寺に至る谷筋の入口に位置する。所有者の中島家は源姓足利氏の流れをくむ旧家で、慶長2年(1597)に足利義久は中島主膳と改めて初代を成し、江戸時代末期、10代目休造(生年不詳〜1881)の頃には、現在の屋敷構えが整えられていたことが絵図等の史料から窺える。その家伝によると、本庭園は、江戸時代後期の著名な南画家、谷文晁らが作庭し、その弟子、渡辺崋山が命名したと伝えられる。巖華園は、江戸時代末期以降、知識人に好んで造られた「文人の庭」の様子を良く遺す事例であり、中国の山水画に描かれる風景の雰囲気を模したところに特徴がある。とりわけ、山麓に露頭する自然の岩盤・岩塊を取り入れた仮山と呼ばれる築山はその名に示すように巌の華の造形を成して独特である。作庭の意図との関係は定かではないが、園内の随所には、近江八景や甲斐の猿橋、厳島など、日本各地の名勝地が見立てられている。
また、巖華園は、江戸時代末期から第二次世界大戦以後に至るまで継続して、数多くの文人墨客が集い、創作・交遊の場として知識人に好まれた点で、優れた芸術活動に影響を与えた庭園であり、足利における江戸時代末期以降の庭園文化の展開を知る上で貴重な事例である。