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旧秋田藩主佐竹氏別邸(如斯亭)庭園

きゅうあきたはんしゅさたけしべってい(じょしてい)ていえん

概要

旧秋田藩主佐竹氏別邸(如斯亭)庭園

きゅうあきたはんしゅさたけしべってい(じょしてい)ていえん

名勝 / 江戸 / 東北 / 秋田県

秋田県

近世

秋田市旭川南町

指定年月日:20070206
管理団体名:秋田市(平22・8・25)

史跡名勝天然記念物

旧秋田藩主佐竹氏別邸(如斯亭)庭園は、佐竹氏の居城であった旧久保田城の北方約1kmに所在し、秋田市街北東部を流れる旭川の左岸に位置する。久保田城の搦手に近在する田園の景勝地(搦田)に営まれたこの別邸は「唐見殿」とも称された。
如斯亭は、元禄年間(1688〜1704)に第3代藩主佐竹義処(1637〜1703)が下賜した土地に近臣の大島小助が整備・管理した別荘を起源とするもので、当初は「得月店」と称された。第5代藩主義峰(1690〜1749)のとき収公して藩主の「御休所」とした。倹約の旨によって一時衰亡したが、第8代藩主義敦(1748〜1785)が安永4年(1775)に再興し、第9代藩主義和(1775〜1815)のときには庭園を整備して、秋田藩校明徳館の助教兼幹事であった儒者那珂通博に「園内十五景」(紅霞洞、靄然軒、夕陽坡、観耕台、清風嶺、佩玉矼、仁源泉、超雪渓、玉鑑池、弓字径、渇虎石、巨鼈島、星槎橋、幽琴澗、清音亭)を選ばせるとともに、その名を「如斯亭」と改め、賓客をもてなす場として活用され、また、文人墨客の交遊の場としても活用されるようになった。廃藩置県により佐竹氏が東京に移住するのに伴って、それまで藩政によく貢献した那波氏の所有となり、昭和22年(1947)には丸野内氏の所有となって現在に至っている。
庭園は南に主屋(如斯亭)を置いて北方を正面とし、遠く北方から東方にかけて新城山、太平山系を望む構成としている。北東部に園内最高所となる築山(観耕台)を設けて、そこから南に3つ、西に1つの築山を連ね、敷地中央部に円く平たい長径約3mを測る岩塊から成る中島(巨鼈島)を配した小さく浅い流れの園池(玉鑑池)を設ける。東辺の築山の間の峡谷から発する流路は、伝い落ちの滝(仁源泉)を成して園池に流れ、園池の西端からは再び流路に収束し、水辺に設けられた大きな景石(渇虎石)を北にやり過ごして、石橋(星槎橋)をくぐり、渓流(幽琴澗)を成して一段低い場所に設けられた茶室(清音亭)の露地に至る。庭園の地割を東から西に向かうこの流路は間断なき水流を成し、「如斯亭」の名の由来となった『論語』の「逝者如斯夫、不舎昼夜」(逝くものは斯くの如きか、昼夜をおかず)を嘆賞する風景として構成されたことを窺わせる。主屋正面の緩斜面に設けられた園路は、途中で2つに分岐してそれぞれ巨鼈島と星槎橋を経て流れの対岸に至り、また、東辺に連なる南端の築山(清風嶺)に登る坂(夕陽坡)から北方に延びる園路、西端に位置する清音亭の露地に至る園路ともに、園内全体を巡る回遊路を構成する。園内の随所には、奇岩の景石や燈籠、蹲などを配し、回遊することで様々な風景を楽しむことができる。
本庭園は江戸時代中期に田園の景勝地に営まれたもので、周囲の山並みと築山の構成が相応する風土的特色を有し、旧秋田藩主佐竹氏に関連して現存する唯一の事例として東北地方の大名庭園及びその文化を知る上で貴重で、学術上の価値は極めて高い。また、「園内十五景」に見られる構成は如斯亭の名とも相俟って独特で、芸術上の価値は極めて高い。よって名勝に指定し保護を図ろうとするものである。

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