旧菊池氏庭園(弘前明の星幼稚園庭園)
きゅうきくちしていえん(ひろさきあけのほしようちえんていえん)
概要
江戸時代末期から近代にかけて、津軽地方には「大石武学流」と称する作庭の流派が風靡した。そのうちの一つが旧菊池氏庭園で、昭和22年(1947)に主屋が全焼した後、昭和29年(1954)に菊池氏から聖母被昇天会に譲渡され、昭和31年(1956)以降は幼稚園の庭園として伝えられてきた。作庭の年代・経緯の詳細は不明であるが、明治時代後期に弘前に薬店を営んだ菊池長之の別邸に起源し、昭和初期に活躍した池田亭月の作庭になるものと推定されている。
今は失われた主屋から、池の東南隅付近の岸辺に据えられた大きな「礼拝石」まで飛石が打たれ、現在でもその一部が残されている。池岸はすべて石で護岸され、複雑な形状を成す。礼拝石の前面のやや広い水面には円形の中島を配し、東南の池岸から石橋が架けられている。池の水面は西へと延び、築山の南からさらに西北の方向へと延びている。築山の斜面には、3つの景石を「くの字形」に配置した枯滝石組のほか、その左後方に富士山形をした「遠山石」が据えられており、聖母マリア像も立てられている。また、築山の東斜面や東北隅部に近い位置には、火袋石に三日月形の窓を彫り抜いた「野夜燈」と呼ぶ石燈籠が据えられている。庭園の背景にはクロマツ・サワラなどの常緑針葉樹が用いられているほか、築山の裾部及び池の周辺にはイトヒバ・ハイマツ・ビャクシンなどが植えられ、風土色を反映した樹種構成となっている。このような景石・石燈籠、植栽などに、大石武学流の流儀が見て取れる。
以上のように、旧菊池氏庭園(弘前明の星幼稚園庭園)は、幕末から近代の津軽地方を風靡した大石武学流の独特の作風を伝える庭園の一つで、造園史上の意義は深く、同時代に属する類型の中でも、特に意匠又は構造面の特徴となる造形をよく遺していると考えられる。