鳴海氏庭園
なるみしていえん
概要
江戸時代末期から近代にかけて、津軽地方には「大石武学流」と称する作庭の流派が風靡した。そのうちの一つが鳴海氏庭園で、黒石の酒造家であった鳴海文四郎の求めに応じて、明治20年(1887)頃に小幡亭樹が作庭を開始し、後に池田亭月が完成したと伝えられる。
庭園はT字型を成し、西及び南を17世紀後半の建造と推定される母屋が囲み、東に大正2年(1913)建造の文庫蔵などが接して建っている。主として母屋の客間及び座敷に北面する庭園で、南北に長い不整形な石組の池を中心とする。客間と座敷の沓脱石からV字形に配置された飛石は、一方が池の南岸に据えられた「礼拝石」へと達し、他方は右手の「離れ蹲踞」へと延びる。池の北端には大小3石から成る枯滝石組があり、その周辺及び後方には「深山石」とされる大ぶりの景石や「野夜燈」と呼ぶ石燈籠が据えられているのをはじめ、庭園の主景となるクロマツも植えられている。また、それらの東方のやや離れた位置には、「守護石」とされる大きな景石が据えられている。
池の北西岸には明治43年(1910)に建立された鳴海文四郎の銅像があるほか、庭園の北西部には、表通りの「こみせ」に面して門が開かれ、門から池に西面する隠居部屋の沓脱石まで飛石が打たれている。
このような景石及び石燈籠の様式、植栽の在り方などに、大石武学流の流儀が見て取れる。
以上のように、鳴海氏庭園は幕末から近代の津軽地方を風靡した大石武学流の独特の作風を伝える庭園の一つで、造園史上の意義は深く、同時代に属する類型の中でも、特に意匠又は構造面の特徴となる造形をよく遺していると考えられる。