平石如砥(一二六七~一三五七)は中国元代の禅僧で、無準師範(仏鑑禅師)の四代の法孫(無準師範-西巖了慧-東巖浄日-平石如砥)にあたり、浙江省寧波の保福寺、定水寺を経て、天童山景徳禅寺に住持した。
本幅は、日本から入元した竺芳祖裔(一三一三~一三九四)の要請に応じて与えた偈で、至正九年(一三四九)如砥八十二歳の筆になる。内容は祖裔の字の竺芳にちなんで、天竺から中国に禅を広めた菩提達磨の末裔としての祖裔の境地を証したものである。本文は左のとおり。
「本覚裔蔵主、字曰/竺芳、求偈是証
西来密意無多子/狼籍春風百草頭/吹
徹少林無孔笛/一華五葉暗香浮
至正九祀己丑秋仲/太白北軒仏海老人如砥
/八十二歳書」
竺芳祖裔は遠江の人で、石梁仁恭(一二六六~一三三四)の法嗣である。仁恭が建仁寺で示寂した後に入元し、この偈を得た至正九年には浙江省嘉興県本覚禅寺で蔵主の役にあったことが知られる。帰朝後建仁寺六十世を経て、南禅寺四十五世を住持して、建仁寺に海雲院を開き応永元年(一三九四)八十三歳で示寂した。
平石如砥の墨蹟は現在六幅が知られているが、本幅は熊本八代の松井家に伝来し、近年その存在が判明したもので、如砥の最晩年の筆跡を伝えるとともに、如砥と祖裔の交流を伝えて日中禅林史上に価値が高い。
附の二通は、いずれも本幅の伝来に関わるもので、玄圃霊三添状は南禅寺の玄圃霊三が甥の松井康之の依頼で、この墨蹟を鑑定したものである。古田織部書状は同じく松井康之に充てた書状で、その中で本墨蹟の表具を仕立てさせたことを述べており、本幅が織部好みの表具に仕立てられた事実を証して注目される。