宮畑遺跡は、福島市を流れる阿武隈川左岸に位置し、標高約60mの河岸段丘上に立地する。平成9年、福島工業団地造成に伴い福島市教育委員会が発掘調査を実施したところ、縄文時代中期の焼失住居跡、後期の敷石住居跡など、縄文時代中期から晩期までの数多くの遺構が発見され、縄文時代の集落跡の存在が想定された。福島市では遺跡の重要性を考え、工業団地造成工事を一時中断するとともに、福島市教育委員会が平成10年度より遺跡の範囲と内容確認を目的とした調査を実施した。
調査の結果、縄文時代中期、後期、晩期の各時期の集落跡が確認された。特に晩期の集落跡は本遺跡の主体をなし、前葉から中葉にかけてその構造が判明している。中央に広場と考えられる東西45m、南北60mの空閑地があり、それを中心に掘立柱建物群が環状に巡る。掘立柱建物は1間四方の4本柱で、環状掘立柱建物群の北西では柱痕跡の径が60から90cmの大型のものがあるが、それ以外は30cm程度が主体である。埋甕との関係から、葬送儀礼に関連する施設と考えられるが、竪穴住居が少ないことからこれらの建物跡は一般的な居住施設であった可能性もある。外側に接して埋葬施設と考えられる埋甕が群を形成して配置される。数は少ないものの、環状掘立柱建物群の北西側から竪穴住居、南西側から土坑墓が検出されている。環状掘立柱建物群から離れた西側の低地に向かう斜面には大量の遺物が廃棄されており、捨て場と考えられる。出土遺物では、大量の土器、石器のほかに土偶、石剣、石刀などの祭祀遺物が出土している
中期、後期の集落は晩期の集落と重複しているため、集落構造は明確ではないが、数多くの竪穴住居などの遺構が確認されており、拠点的な集落と考えられる。中期の集落は焼失住居が多いことが注目される。これは廃棄の際に、竪穴住居に火をつけて燃やしたもので、重複関係、出土土器等から一定期間にわたって住居を焼いていたことが明らかとなった。焼失住居からは炭化した建築部材や屋根材のほかに、焼土塊が出土していることから、土が屋根を被覆していたことが確認できる。後期も晩期の集落と重複しているため構造は明確ではないが、敷石住居、土坑、埋甕、捨て場等から構成される。
宮畑遺跡は、縄文時代中期、後期、晩期の各時期の集落跡であり、特に縄文時代晩期では集落構造や出土遺物から東北南部を代表する拠点的集落と考えられ、縄文時代の社会を考える上で極めて重要な遺跡である。また、晩期の集落については集落構造全体が判明したものとしては当該地域における初めての事例である。よって史跡に指定し、保護を図ろうとするものである。