中国・山西省の高山、五台山は、古くより文殊菩薩が生き続けて法を説いていると信じられ、僧俗の巡礼者が後を絶たなかった。中尊寺経蔵に安置される本一具は五台山において唐~宋代にかけて成立した図像に基づく、いわゆる五台山文殊の群像である。獅子に乗り如意を執る文殊菩薩像を四人の従者が囲む構成で、前方の二人は先導役の童子と馭者、後方の二人は五台山にまつわる仏教説話の登場人物である。
いずれも檜材製で、文殊像は頭体幹部を一材より造り前後に割矧ぎ、脇侍像はX線撮影が行われた優填王・仏陀波利像については、前後矧の構造になることが判明している。各像とも襟際の線で胸許の肉身を含む頭部を割離す技法を用いている。各像の表面漆箔および脇侍像肉身の胡粉彩色は後補であるが、その下層に残る布貼は当初のものである。獅子を含めいずれも玉眼を嵌入するが、これも文殊像のものを除き当初とみられる。
文殊像は定朝様を忠実に襲い、また他の四体はそれぞれゆるやかな動勢が巧みに表され、いずれも穏和で品格のある作風を示している。十二世紀の製作とみられ、その洗練されたできばえからみて、作者は中央の仏師であろう。
中尊寺には紺紙金銀交書・宋版・紺紙金字の三部一切経が伝来し、それらは藤原三代にそれぞれ関わるものとみられている。本一具はそのいずれかの施入を契機として建てられた経蔵の本尊として製作されたと思われるが、作風からみれば二代基衡(保元二年=一一五七没)による宋版経の施入と関係する可能性が考えられよう。この種の群像の平安時代に遡る、しかも作柄の優れた遺品として貴重であり、玉眼という当時最新の技法が奥州藤原氏関係の造像にいち早く取り入れられていることも興味深い。