花園天皇(一二九七~一三四八)が大徳寺開山大燈国師宗峰妙超(一二八二~一三三七)に宛て、大徳寺は曹溪(中国禅宗六祖慧能が住した)の正脈を受けた禅林の規範となるもので、妙超一流が相承し、他門の徒を住せしむることなかれ、と将来にかけ厳誡されたもの。建武四年(一三三七)は花園天皇四十一歳、宗峰妙超五十六歳であった(宗峰はこの年十二月二十二日入寂した)。これより先元弘三年(一三三三)八月には、後醍醐天皇からも同趣旨の宸翰置文を賜わっている(大徳寺蔵、国宝)。宗峰妙超の徳望を示すとともに、大徳寺創建当時の勢威を伝える根本史料である。