三浦梅園(一七二三-八九)は江戸時代の哲学者。九州国東【くにさき】半島双子山山麓(現在大分県国東市安岐町)の医家に生まれたが、儒学に志して中国の古典を愛読した。三十歳の頃天地間に条理のあることを知った。条理の説は彼の独創的なものであって、天地間一切のものは反観合一のいわば弁証法的論理により解明されるというものであった。その学説を著わしたのが主著「玄語」・「贅語【ぜいご】」・「敢語」のいわゆる梅園三語である。このうち「玄語」は条理の思想体系を、「贅語」は古今の諸説をひいて条理学の体系的位置づけを、「敢語」は条理の実践面を説いたものである。その他彼の著述には、経済論として「價原」、詩論として「詩轍【してつ】」、西洋医学に関する「造物餘譚」など多方面にわたるものがあり、彼の学問の幅広さを示している。
しかし、梅園は終生のうち、伊勢参宮と長崎行の三回の旅行以外ほとんど国東の地を離れることがなかった。ために交友少なく、彼の学説は広く知られることなくして終わった。明治以後西洋の弁証法哲学の移入とともに、梅園の条理学はわが国の哲学思想界の脚光を浴びるようになった。彼の著述稿本類は今日も子孫の三浦家に所蔵されている。それらは昨年国東半島の文化財総合調査を機として概要調査が加えられ、そのうちの主要なものが重要文化財となっている。