能阿弥(一三九七-一四七一)は足利義教・義政に仕えた同朋衆の一人であり、幅広い技芸に通じた人物として著名である。絵画の分野にあっては、実質的に阿弥派の始祖といってよい。能阿弥の作例としては、応仁二年(一四六八)制作の「絹本墨画淡彩白衣観音像」(重文・個人蔵)が基準作として知られている。本図は「白衣観音像」の翌年にあたる年記をもつが、印影および落款の書体がよく共通する。しかも、小品である「白衣観音像」に比して、本図は大画面の作例であり、能阿弥が画家としても非常に高い技量を有していたことを証する作例である。その意味で本図の能阿弥基準作としての重要性は特筆すべきものがある。
本図には台北・北京の故宮博物院蔵「花卉雑画図巻」等との比較によって伝牧谿画に由来するモチーフが多数指摘されており、能阿弥が牧谿画風を十分咀嚼していたことが知られる。空間構成は、時代を反映してか、やや羅列的であるが、用墨においては没骨描を駆使し、優れた墨技をみせる。ことに霧、風、外暈による白鷺などを表現する淡墨はきわめて効果的かつ繊細である。一方、気負いのない磊落な筆致は、晩年の熟達した境地を感じさせる。
本屏風の右隻には、
「 久莫離坐右 応仁三暮春□一日 七十有三歳 」
左隻には、
「為花恩院常住染老筆」
と款記があり、能阿弥が本図を花恩院に贈ったことが記されている。花恩院とは浄土真宗興正寺(のちに存覚が仏光寺と改称)住職代々の院号であったが、『證如上人日記』天文二十一年九月五日の条に興正寺(仏光寺を離反した経豪が建立し仏光寺の旧号を称した寺)の住職蓮秀(経豪の子)の遺品として「小屏風一双能阿筆」が登場すること、蓮秀の父経豪(一四五一-九二)が仏光寺住職となった時期が本屏風の制作年に当たる応仁三年の三月十日であることから、本屏風は、経豪の寺務継承時に祝いとして、能阿弥から仏光寺に贈られたものと考えられる。
本図は能阿弥の代表作として貴重であるばかりでなく、現存最古の水墨花鳥図屏風としてもその史料的価値は非常に高いものがあるといえよう。