須恵器の長頸瓶としては最大の作品で、奈良・平安時代の須恵器としても最大級である。大きな焼け歪みもなくわずかに焼成時の亀裂が肩に見られるのみで、肩全体に厚く掛かった自然釉もよく熔けて見事な褐緑色を呈している。
大正十年二月二十四日に三重県鳥羽市答志町に所在する蟹穴古墳から地元の川原松蔵氏により発見され、同時に出土した七世紀前期に比定される別の長頸瓶と坏とともに大正十二年に帝室博物館に寄贈されたものである。
なお、蟹穴古墳は径約一一メートル、高さ約一・五メートルの円墳で内部主体は横穴式石室である。
本作品は、やや砂質で灰白色を呈する胎土や透明感のある自然釉の発色などからみて、現在の岐阜県各務原市から岐阜市にかけて展開する美濃須衛窯で製作されたと推測され、型式的には「美濃国」刻印須恵器を製作した老洞窯(七一〇-三〇年ころ操業)に先行するもので、奈良初期に位置づけられるものである。尾張や美濃では七世紀末から八世紀前期にかけて、本作品のように長頸瓶などの器種できわめて大形の特殊な製品を製作しており、老洞窯においても同様な大型長頸瓶などが製作されている。用途としては本例のように古墳への副葬(追葬)を含めた祭祀等に用いられたと推測される。
本作品は、大作で堂々とした形姿に自然釉が見事に掛かった奈良・平安時代の須恵器を代表する遺例として貴重である。